犬と老木


小高い丘の上に、一本の老木が生えていました。
大きな大きなその木は、ずうっと昔から、何年も何百年もそこにいました。
春は花を咲かせ、夏には若葉を茂らせ、秋には実を結び、冬には大切な芽を守りながら次の季節を待って老木は一年を過ごすのです。
丘には、その老木の他に木は一本も生えていませんでしたが、老木はちっとも一人ぼっちではありません。
毎朝昇ってくる太陽とも挨拶しますし、時々休みに来る小鳥達とも話をしますし、夏になると幹をねぐらとする虫達がいました。
けれどもそれもひとときのこと。
老木はめぐりゆく季節のなかで、いつでも一人取り残されているような気がしました。
虫達も小鳥達も、みんな自由にいろんな場所へ行けるのに、老木だけがいつも丘の上に立っていたからです。

ある大雨の日、老木のそばに一匹の犬が雨宿りに来ました。
その日はあまりにひどい雨だったので、老木は葉を茂らせた枝を目一杯に広げて、傘のかわりになってあげました。
犬がぐっしょり濡れた体をぶるぶるっと震わせると、あちこちに水が飛び跳ねます。
大きな声で犬がくしゃみをしたので、老木が声をかけると、犬は木を見上げました。
「雨宿りさせてくれてありがとう。風邪をひくところだったよ」
「そうだね。雨があがるまでこの根元でおやすみ。ここなら暖かいから」
老木が足元を指し示すと、犬はお礼をいってから老木の根元で丸くなりました。すぐに暖かそうな毛に覆われたお腹が上下しはじめます。
しばらくすると、雨がやみ、雲の間から太陽が顔を出してきました。
「雨、あがったようだよ」
老木が教えると、犬は起き上がりました。丘の向こうに大きな虹がかかっています。
「うわあ、何て綺麗な空なんだろう」
犬は初めて虹を見たのでした。しっぽをピンと立てて、犬は虹をじっと見つめます。
「あれは虹っていうんだよ。雨があがったときに時々見ることができるんだ」
「へえ、あんた物知りなんだね」
犬は老木を見上げて尻尾を振りました。
「でもいろいろ知っててもその体じゃあ、どこにも行けないなあ」
犬は老木の周りをぐるぐると回り、そして少し尻尾を下げて見せます。そして思いついたように、もう一度ピンと尻尾を立てて大きく吠えたのです。
「よし、雨宿りさせてくれたお礼だ。何かぼくに見てきてほしいものはない? ぼくがあんたのかわりに見てきて、ここでいっぱい話してやるよ。だってここからの風景なんてもう見飽きただろ?」
老木はうーん、と唸りました。確かに、何百年もの間、この小高い丘から見える風景しか見たことがありません。小鳥達から時々話を聞くことはあっても、詳しくどんなところがあるのか、聞いたことがないのです。
「海」
老木は答えました。
「海を見たい。鳥たちから話を聞いたりするけれど、あいつらは話がへたくそだからな。大きいことしかわからないんだ」
「海か」
犬が頷きます。
「海はぼくも見たことがない。よし、海に行ってくるよ」
よほど嬉しいのでしょう。犬の尻尾が大きく左右に振れました。
「ちゃんと海を見てきて、どんなだったか話すから待っててくれよ!」
犬は元気よく一声吠えると、丘の下に向かって駆け出していきました。
けれども海なんてどこにあるか犬も老木も知らないのです。
老木はあの犬が海に辿り着くことができるとは思いませんでした。
多分海はここからとても遠いところにあるのですから、あの犬もきっと諦めてしまうに違いないのです。
老木はいつかあの犬が諦めて帰ってくると思いながら、いつものように丘の上で毎日を過ごしました。

それから何年か経ちました。
犬は一向にやってくる気配がありません。
老木はきっとあの犬が自分との約束を忘れてしまったのだと思いました。
毎年やってくる小鳥が来年こそは自分の幹で巣作りをすると約束しても忘れてしまうように、月日が経てば約束なんてみんな忘れてしまうからです。
約束を覚えているのは、いつも長く生きている老木だけ。
冷たい冬の風にさらされながら、老木はいつものように春がやってくるのを一人で待ち続けました。
やがて寒さもゆるみ、老木の枝の先から新しいつぼみが顔を出し始めた頃のことです。
丘の下から一匹の犬が駆けてくるではありませんか。
そう、何年か前に雨宿りをしたあの犬です。
全身泥だらけで、駆けてくる最中も何度も何度もこけてはいましたが、目だけは輝かせて犬が駆け寄ってきました。
「海を、見たよ!」
老木は、今すぐにでも花を咲かせたい気持ちになりました。
けれども犬は、老木の根元に辿り着いた途端、突然横になってしまいました。
疲れたのでしょうか。
でも、これからいっぱい時間はあるのです。
老木は疲れた犬が寒くないように枝を動かしながら風をよけてやりました。

目覚めた犬は、それはもう嬉しそうに海の話をしゃべり続けました。
海は青いこと、海は大きいこと、浜辺には波が打ち寄せてくること、海の水が塩辛いこと……。
あまりにたくさんのことを話すので、老木はまるで自分が海に行ったような気分になってしまいます。
何百年生きていても、一度も見たことのない海。それを、犬の目を通して見ているようでした。
一足早く花を満開にしてしまうほど老木も嬉しくて嬉しくて、毎日毎日老木と犬は一緒に寄り添いながら海の話をしました。
「海の果てがあると思ってぼくはずっと走ったんだけど、海の果てはずーっと向こうだったんだ」
「じゃあ、海の果てはどうなっているんだろうね」
そんな想像を巡らすだけでも楽しくて楽しくて仕方ありません。
老木は、この犬が一生の友達になったように思えました。
ずっとずっと、このまま一緒に海の話をしていられると思ったのです。

やがて、暑い夏がやってきました。
海への旅がよほど大変だったからでしょうか。
蝉が鳴く頃になると、犬が毎日疲れた顔をするようになりました。
夕立を溜めた水をあげても、まだ若いみずみずしい実をあげても全然元気になりません。
暑そうなのがかわいそうなので、老木はできるだけ大きな涼しい木陰を作るようにして、ひんやりとした根元に犬を寝かせてやりました。
疲れていても、海の話をするときだけは犬も元気そうな顔をします。
老木は犬の元気な顔を見たくて、考え付く限りの海についての質問を毎日しました。
そのたびに犬は嬉しそうに答えるのです。
「それはね……」
と。

秋になりました。
老木からも熟したおいしい実と赤くなった葉っぱが大地に落ちる季節です。
犬はほとんど立ち上がらなくなりました。
毎日寝ているばかりで、老木と海の話をする回数も減りました。
老木は寝ている犬が寒くならないように、落ち葉の布団をかぶせてやりました。
けれども、老木は本当はわかっていたのです。
本当は。

犬はどんどん話さなくなってきました。
老木は生き物がこんな風になるとどうなるのか、ちゃんと知っていました。
生き物は死んでしまうのです。
死んでしまうと、もう動かなくなることも、話さなくなることも知っていました。
でも。
犬とはずうっとずうっと海の話をしていたかったのです。
だから、知らないふりをしました。
落ち葉の布団をかけて、熟した実をあげて、毎日考えられるだけの海についての質問をして。
「それはね……」
と犬が答えれば、犬が死ななくてすむと思いたかったのです。

やがて、犬は死んでしまいました。
老木は枝という枝を揺らし、全部の落ち葉をかき集めて犬にかけてあげました。
熟した実も全部、犬の口元に置いてあげました。
そして何度も何度も、海についての質問をしてみました。
どんなにしてみても、もう海の話は聞けないのです。
老木は悲しみました。
悲しんで、悲しんで、悲しみすぎたせいで、次の春はひとつも花が咲きませんでした。

何年も何年も後。
老木がもうすっかり犬のことなど忘れてしまった頃。
老木は突然、目の前に海が広がったような気がしました。
いえ、見たこともない海が見えたのです。
きらきらとして、真っ青で、広くて大きな海。
それは幻などではなく。
いつの間にか根元で土になった犬が教えてくれた、本当の海の光景だったのでした。

犬祭2にて銀の骨をいただきました。

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