第四章 黒き時


 ヴァルは体に打ち付ける砂粒の感触に目を覚ました。ぼんやりとした意識が状況を把握するのに数秒かかったが、飛び起きるとヴァルはすぐ隣で横たわっているサラムの無事を確認しようとした。
「大丈夫。生きていますよ」
 声に振り返ると、傍に見知らぬ男の笑顔があった。シュカに雰囲気が似たところもあったが、彼よりもずっと年上で、どこかマリオラを思い出させた。
「あんた誰だ? あいつは!?」
「クシティには逃げられてしまいました。とどめを刺そうと思ったのですが」
 男はそう言いながら特にクシティの生死に興味は無いようだった。
「あんたが助けてくれたんだろう? 礼を言うよ。あんたがいなかったら、俺もサラムも死んでたはずだ」
「礼には及びませんよ。通りがかっただけです」
 男の黒い長い髪が揺れる。ヴァルは風がはだけさせた男のマントの内側にある剣に目を留めた。サラムがマリオラから受け取った剣と同じもの。それは――
「あんた、名前は……」
「……テンレンと申します」
 ヴァルは耳を疑った。島から出て行方不明の人間が何でこんな所に。
「一体、何であんたがここに……」
「通りがかっただけですよ」
 絶対偶然ではありえないはずなのにテンレンは飄々とそう言いはなった。
「いや、そんな事より。マリオラが、自分が死んだらあんたに会いにいけってサラムに遺言残してたんだ。それに、シモンの奴もあんたを探してる」
「そうですか」
 興味があるのか無いのか、まったくわからない返答にヴァルは多少苛立ちを覚えた。そんなヴァルの様子に気づいたのか、歩き出そうとテンレンは立ち上がった。
「ヴァル君はサラム君を連れて世界樹に向かってください。私はシモン達を呼びに行きますから」
 テンレンがいつ自分の名前を知ったのか不審に思いつつ立ち上がると、テンレンはすでに歩き出していた。
「サラム君は寝ているだけです。でもしばらくは起きないと思うので、担いでいってあげてください」
 付け足すようにそう言って、テンレンは飄々と風の中に消えていった。
「ちょっと待てって!」
 あっという間に小さくなったテンレンの後ろ姿を追いかけようとしたヴァルは、寝たままのサラムの方を振り返って足を止める。サラムを一人にするわけにはいかない。足を止めたまま、ほとんど見えなくなったテンレンを見つめてヴァルはぼやいた。
「歩くの速すぎるぜ、あいつ……」
 残されたヴァルは眠りつづけるサラムを見て途方にくれた。
「世界樹にいけ」と指図だけされたものの、どうして行かなくてはならないのか、そして何故マリオラはテンレンに会いにいけと言ったのか、さらにはどうやってあの瀕死のサラムを助けたのか、何故シモン達の行き先を知っているのか、自分の名前を知っているのか、という大量の疑問が何一つ解決されないままテンレンに去られてしまった。
目の前にいるのは気を失っているのか眠っているのかわからないサラムだけ。
 ただ眠っているだけなら引っぱたいて起こそうかとも思ったが、先ほどの瀕死の状態の彼を見ているだけに何だかかわいそうになり、ヴァルは起こさないように世界樹までおぶっていくことにした。
 世界樹は西の方にある。直線距離で3、4キロといったところか。辺りは丘一つない平地である。世界樹の姿はヴァルがいたその場所からも普通に確認できた。
「まったく、何であんなところに……」
 ブツブツ文句を言いながらも、世界樹のあるあの場所がこの辺一帯で一番安全なのは否めない。
クシティとの対決。サラムの体を背負いながらヴァルは自分の弱さを思いやった。相手が聖者であるせいもあるが、全く歯が立たなかった自分自身に腹が立った。あの時、運良くテンレンが助けに来なかったら間違いなく自分もサラムも死んでいたに違いない。五番街で最強を誇っていた自分が、サラム一人すら守れないことがくやしかった。
――何のために俺が一緒にいたんだか。
 サラムを背負いなおしてヴァルは苦笑した。あの場にいたのが自分でなくアスラやシモンだったら。アスラの言う『聖なる力』に対してほとんど無知なヴァルよりは数倍マシな戦いができたに違いない。
――結局、俺は何の役にも立たない。
 マリオラとあの街を出たとき、何かあったらサラムを守るのは自分だと思っていた。ヴァルは普通の人間にしか通用しない自分の「強さ」が歯がゆかった。
 実際クシティと戦ってみると、銃という物理的な攻撃はほとんど効かなかった。いつかアスラが言っていた『聖水』の力によるのだろうか。とにかく聖都の人間に対してはヴァルの「強さ」では対抗しきれない。そしてこの間出会った「あの世の住人」も。一度そう結論付けてしまうと、ヴァルは自分がここにいる意味が無いとまで感じ始めた。
「ああ、自分がこんなにダメだと感じたのは始めてだぜ……」
 一人ごちると、突然背中のサラムが身動きした。
「起きたか?」
「……」
 寝ぼけて自分の今の状態に混乱したのか、思わずヴァルの頭に自分の頭をぶつけてサラムは背中から転がり落ちた。
「大丈夫か?」
 サラムは目をこすってヴァルを見上げると、もう一度首を振って目をぱちくりさせた。
「ぼ、僕なんで生きてるの……」
 かなりまともな質問に、ヴァルはしゃがみこんで答えた。
「テンレンって人が『通りかかった』らしくて、助けてくれたんだよ。おかげで俺も助かった」
「あ、あの人……そうだったんだ」
 サラムはテンレンを見たらしかった。
「シモン達を呼びに行くから、世界樹のとこ行けって言われたんだ。何でか知らないけどな。まあ、どっちにしろ車は壊れて行くとこないし」
「そうだね。あ、それで僕をおんぶしててくれたの? ありがとう」
二人は世界樹を目指して歩き出した。
先ほどの砂地から世界樹に近づくにつれて砂は減り、小さな砂利のようなものになってきた。世界樹の付近は保護区に指定されているため、街はおろか建物さえ建っていない。世界樹の近くに行けば観光用に歩道は設置されているが、ゴミが出るので店も存在しない。ゆえにヴァル達が歩いている場所から見えるのは大きな世界樹だけで、遠くには五番街跡地とその他離れたところにある街がくすんで見えた。
 世界樹に近づくにつれて、サラムの足取りがはやくなってきた。不思議に思ったヴァルは何かあるのかと問いかけようとした。すると。
「マリオラが呼んでる。あの樹のそばで」
――そんな馬鹿な。
 そう思ってもう間近にせまっている世界樹を見やったが、マリオラの姿どころか人影すら見当たらない。立っているのは世界樹の説明が書かれた観光用の看板だけだ。
「テンレンて人は、この事知ってたのかな……」
「お前、マリオラなんて何処にもいねえよ」
「いるよ。ほら、あそこで手を振って……」
 そう言ってサラムが手を振ると、ヴァルには見えないマリオラの代わりに、地面が揺れた気がした。
その時だった。
ゴォ、と音がして突然世界樹が大きな幹と葉を揺らした。突風が吹き荒れて、地面が大きく震えた。思わずヴァルがしゃがみこんで地に手をつくと、今度は大地が大きく割れた。まるで地球が半分に割れてしまうような音と共に、割れた地面から世界樹の大きな根が飛び出す。
突然の轟音と突風の中で、サラムは立ったまま手を誰かに差し伸べるような格好で突っ立っていた。
「馬鹿! お前何してるんだ!」
 黒い土の地面を突き破って、いたるところで根が飛び出していた。それはまるで生きているように蠢き、立ち上がりかけたヴァルを突き飛ばした。
「何だこいつは……まるで生きてるみたいじゃねえか!」
 あっけにとられてヴァルはうねる世界樹の根を見つめた。根は、うねりながらサラムのいる場所まで伸びていき、そしてやがて彼を包み込むように絡み合った。
「サラム!」
 蚕の繭のように絡まってサラムを包み込んだ根をはがそうと、ヴァルは走りよった。だが、黒い土がついて湿った根は思ったよりも硬く、びくともしない。爪の中に土がめり込み、根の表面に傷をつけるだけだった。
「くそ、なんだって言うんだ!」
 ヴァルはサラムの名前を呼びながら何度も世界樹の根で出来た繭を叩いた。だが、中からはサラムの声は返ってこない。ついには銃に弾をこめて繭を撃ったが、よほど頑丈なのか、命中してもびくともしなかった。
「畜生!」
 ヴァルは繭を思い切り蹴り飛ばして、その場に座り込んだ。繭によりかかると、ひんやりした土の匂いがした。空を見上げると昨日の豪雨が嘘のように晴れ渡っている。
 そうしてサラム救出を諦めて、小一時間が経った頃だろうか。うとうとしかけていたヴァルは近づいてくる人の気配に目を覚ました。シモン達とテンレンかと思ったが、違った。
立ち上がったヴァルに微笑みかけたのは。
「こんにちは。いい天気になりましたねえ」
 昨日の豪雨の中姿を消していたシュカだった。


 シュカの様子はいなくなる前とほとんど変わらなかった。むしろ何かすっきりしたような顔をしている。ヴァルは昨日の夜からの出来事を全てシュカに話した。しかし、一体その間シュカが何をしていたのかと尋ねると、
「ちょっと考える事がありましてね」
とシュカはお茶を濁すばかりだった。
 世界樹の起こした、信じられない光景を見たヴァルがその話をすると、シュカは何かその事について知っているようなそぶりを見せた。
「やっぱりサラム君が……」
 呟いて、シュカは地上に突き出した世界樹の根に触れる。
「何でこんなことになったかわかるのか?」
「いえ、何というか……」
 またシュカは言葉を濁した。どうせ後でアスラ達も来たらその話はするだろうと思い、ヴァルはクシティと戦った話をした。
「でさ、テンレンが助けてくれなかったら俺たちは間違いなく死んでたんだ。何でこんなに無力なんだろうって、後で考えたりした」
「聖都の人間は、特別な力を持っていますからね」
 しょうがないですよ、とシュカは言った。
「でもそれじゃあ、俺が何のためにいるのかわからない。サラムは、俺が守るってマリオラに約束したんだ。今日はクシティからも、この世界樹の根からも……。これじゃ俺がいる意味が無いだろ」
 ヴァルは深くため息をついた。今後の戦闘でも、きっと自分が足を引っ張るのだろう。そう思ったら、本当に気持ちが落ち込み始めた。
「強さが欲しい……聖都の奴らにも負けない力が」
 吐き出すように、ヴァルは言った。シュカの眉がぴく、と上がる。そしてしばらく考えてから、シュカはこう言った。
「……ヴァル君にも、力を授けることはできますよ」
「なんだって?」
 ヴァルは顔を上げた。
「聖水を使えば、あるいは」
「聖水?」
 以前、『聖水』という言葉をアスラから聞いたことがあるような気がする。それが何か、力と関係あるものなのか、とヴァルは聞き返した。
「聖都の人間が使う力は、『ハレ』の世界のもの、つまりあの世のものです。それをアスラ様とビカラ様以外のこの世の人間が使うためには、体の一部をあの世に近づけなくてはなりません。その為に聖都の人間は聖水を使って、ハレの世界と干渉し、力を得るのです」
 シュカは服のポケットから、人差し指の長さほどの小さなビンを取り出した。キラキラ光る、不思議な液体が揺れていた。
「それを使えば、力は……」
「確実に手に入ります」
 シュカはそう言ってビンをヴァルの手に渡した。
「ただ、どの程度の力が手に入るかは、その人次第のようですが」
「……飲めばいいってことか?」
「ええ」
 シュカが頷く。ヴァルはビンの蓋を開けて、一気にその液体を飲み干した。すると。
「……なんか、ふらふらする……」
 頭を押さえたヴァルの手から、空のビンが落ちて割れた。目の前がぐるぐる揺れる。空が真っ白に見えた。
「シュカ、大丈夫なのか、これ……」
 シュカの顔はぐにゃりと曲がってほとんど認識できなかった。意識を失うか失わないかの瞬間に、シュカが呟くのが聞こえた。
「はじめからこんな強い聖水を口にして、無事でいられる精神なんてこの世に存在しませんからね」
 何の感情も無い、冷たい声だった。視界が真っ暗になる。ヴァルの体はぐったりと地面に倒れた。


「マリオラ……会いたかったよ……」
 サラムはマリオラに抱きついていた。マリオラも優しくサラムの頭を撫でる。
「でも、どうしてこんな所に?」
 サラムが顔を上げる。そして周りを見回してはっとした。ここは世界樹の根元では無い。ヴァルの姿も無かった。辺り一面、雪が降ったように真っ白で。
「マリオラ、ここ何処……」
「何処かしらね。でも、あの世じゃないわ」
 マリオラはそう言って漆黒の瞳で微笑んだ。マリオラが傍に居る、それだけでサラムはここが何処かなんてどうでも良くなって再びマリオラに抱きついた。暖かい、優しい感触がマリオラの存在が嘘でないことを証明していた。
「サラム、本当は私は死んでいるのよ。知っているわね」
「うん……」
 そんな事はどうでもよかった。今、マリオラがここにいてくれるなら。
「私をサラムに会わせてくれたのは、この世界樹なの」
 マリオラが後ろを振り返るといつの間にか大きな世界樹があった。
「必ずここに帰ってきてくれると思っていたわ。あなたの生まれた場所……」
 瑞々しい世界樹の幹は脈打っているように思えた。
「サラム、あなたの名前が古い言葉で大地を示す言葉だということは教えたわね」
「うん」
「実は、あなたがここで生まれたことには深い意味があるの」
 マリオラは世界樹を見上げながら大きな幹に右手を置いた。まるでその心音を感じ取ろうとしているかのように。その姿は聖母のようで、サラムには神々しく見えた。
「……あなたをこの世に生み落としたのは、誰でもない、この世界樹……いえ、この大地そのもの。私はこれから、あなたの母親に代わって大切なことを話さなくてはならない。そのために、あなたに会いに来たの」
 マリオラの告げる不可思議な真実を聞いても、サラムにはそれが不自然な事には思えなかった。むしろ、自分を生んだのがこの世界樹だったということにひどく納得している部分があった。
「あなたは特別な力を授かっている。それは、ビカラ達聖都の人間がやろうとしている、『扉』を開くのを止めることのできる力。どうしてか、わかる?」
 サラムは世界樹を見上げた。
「――神を降臨させて欲しくないから、かな……」
「その通りよ」
 そよ風が吹いてマリオラの黒い長い髪を揺らした。
「じゃあ、神とは一体何なのか、あなたにはわかる?」
 サラムは首を振った。
「何もかもが生まれる前の、混沌とした全て。非のない、完全なもの。それが、人が証明した『神』という存在よ。そこから無と有、あの世とこの世が生まれ、私達が生まれた」
 マリオラは口をつぐんだ。そして小さな声で、「真実とは、残酷なもの……」と呟いた。


 その頃、アスラ達はテンレンと出会い、共に町にうち捨てられていた車に乗って世界樹に向かっている最中だった。
「テンレン様、一体今まで何処で何をしてたんですか」
 誰にでも悪態をつくシモンが、テンレンには多少なりとも丁寧な言葉で接する姿に、アスラは吹きだしそうになる。
「聖都の動向を探っていました」
「何で一年も行方不明になってたんですか。オレにも何も言わないで」
 簡潔なテンレンの答えにシモンが食ってかかる。彼の口調には少し怒りも含まれているようだった。
「心配させたようですね」
「当たり前です」
 悪いと思っているのかいないのかわからないようなテンレンに語気荒くシモンが言い返す。
「実は私一人で何とか彼らを食い止められないか考えていました」
「またそんな無茶な事を」
「ええ、無茶だったようです」
 シモンはため息をついた。相変わらずやりにくい、と思う。テンレンは自分の最も尊敬する人であり、同時に最も苦手な人物でもあった。
「けれど、アスラさんと、あのサラム君がいてくれれば、あるいは……」
「サラム? あの子が役に立つっていうの?」
 テンレンの意外な発言にアスラが疑問を抱く。あんな子が役に立つわけが無い、と。
「サラム君は……大変な力を持っています。マリオラが守り、その存在を隠してはきましたが。アスラさんも、あの子が不思議な子だと思いませんでしたか」
 言われてみれば、とアスラは思う。あの不思議な程鋭い洞察力と直感。そして、人を安心させる何か。けれどアスラには、サラムに宿されているという大きな力は感じられなかった。
「あの子は、ビカラが開きかけている『扉』を閉じることのできる力を授かっています。その事を、聖都も気づいたようです。先ほど、聖者の一人、クシティがサラム達のもとにやってきていました」
「それで!? あの子達は大丈夫なの!?」
 アスラが驚いた声を上げる。
「大丈夫です。私が追い払いました。今ごろ彼らは世界樹へと向かっているでしょう」
 テンレンの落ち着いた声にアスラはほっと胸をなでおろした。
「アスラさんも、我々人間と、神がどういう関係なのかすでに気づいていると思いますが、サラム君は……大地が生み落とした、最後の希望なのです」
「サラムが……」
 アスラは言葉を失った。


 たくさんの驚くべき真実を語った後、マリオラはサラムの手をしっかりと握ってこう言った。
「聖なる力は、もともとこの世に存在しない力。それよりも大地からあなたが授かった力の方が影響力が強いわ。聖なる力を恐れずに戦いなさい。戦い方は、その剣が教えてくれる」
 サラムはマリオラから貰った剣を見つめた。
「ザーラークシャの人が作ったんでしょ」
「そう。その剣は、大地の力を授かっているの。――私とテンレンが、あなたを守るために授かった」
 サラムがマリオラの顔を見上げる。
「テンレンさんは、さっき僕をたすけてくれたよ」
「そう――」
 何故だかマリオラは、懐かしそうな目をした。
「その剣を通して、大地は必ず、あなたに力をかしてくれるわ」
「わかった。がんばるよ」
 答えると、マリオラは穏やかに微笑んだ。
「そろそろ、外の世界に帰りなさい。お別れよ」
「お別れ?」
 サラムが聞き返す。
「今度こそ本当のお別れよ。外でヴァルが大変なことになっているわ。助けてあげないと」
「ヴァルが?」
 サラムが後ろを振り返ると、真っ白だった空間が頭の上のほうから割れ始めた。その割れ目から元の世界が顔を出す。
崩れて行く白い空間の中で、サラムはまたマリオラの方を振り返った。
「マリオラ!」
 マリオラは聖母のように微笑んで、ゆっくりと手を振っていた。何かの殻が破れるように、次々と壁は崩れ落ちていく。
 そして白い壁が崩れ去ったあとには。
「ヴァル!」
 倒れたヴァルの姿が視界に飛び込んできて、思わずサラムは駆け寄った。
「ヴァル!」
 もう一度叫んでヴァルの体を揺すってみるが、ぴくりともしない。
「ヴァル! しっかりしてよ!」
 何度も何度も体を揺り動かす。死んじゃやだ、死んじゃやだ、サラムが叫んでいると上から声が降ってきた。
「……ヴァルを助けてあげましょうか」
 顔を上げると、シュカの優しい笑顔があった。
「そのかわり、条件があります」
 彼がそう言ったとき、後ろの方で車が止まる音がした。サラムが振り返ると、三十メートルくらい先の所に砂埃にまみれた車が止まって、ドアからアスラが飛び出した。
「シュカ!!」
「動かないで下さい」
 シュカの指が倒れたヴァルの喉に触れるのを見て、アスラが動きを止める。車から出ていたシモンとテンレンもそのまま固まった。
「シュカ……?」
 驚いた顔をしてサラムがシュカを見つめる。シュカの顔にいつもの柔らかい笑顔は無かった。
「アスラ様、そこから一歩でも動けばヴァルの息の根を止めます」
「何をやってるんだ! シュカ!」
 アスラは叫んだ。いつもならアスラの言葉に素直に従うシュカだったが、シュカの行動に変化は見られなかった。
「ヴァルは聖水に精神を冒されています。このまま行けば、確実に死に至るでしょう」
「……」
 重くて静かな、死神のようなシュカの声にサラムは息が止まる気がした。
――ヴァルが死んだら。
 サラムの心臓が早鐘を打つ。そんなサラムにシュカは一つの提案をした。
「今なら、聖水によって引き起こされた異常反応を解毒することができます」
 シュカは左の手で小さなビンを取り出してサラムの前に見せた。
「そのためには、サラム君の身柄を我々に預けてもらうことが必要です。言っている意味がわかりますね?」
 シュカが、目の前で自分を脅迫している。サラムにはその事が不思議でならなかった。後ろでアスラが叫ぶ。
「サラム! シュカについていったら、お前が殺される!」
「……でも、僕が行かなかったら、ヴァルが死ぬんでしょ」
 サラムは目を閉じたままのヴァルを見て、シュカを見上げた。シュカはにっこりと微笑んだ。その姿も、死神の微笑に見える。
「心は決まったようですね。それではまず、マリオラから貰った剣を私に渡してください」
 サラムは言われる通りに剣をシュカに渡す。剣を受け取るとシュカはサラムの腕を掴んで立ち上がった。ヴァルからシュカの指が離れた瞬間、アスラが光の弾を放った。しかしそれと同時にシュカがその何倍もの強烈な力を放ち、白い光が降ってくる中でアスラ達は地面にふせることしか出来なかった。
 そして、轟音がやみ、白い光が消えた後、シュカとサラムの姿はそこには無かった。代わりに意識を失ったままのヴァルと、シュカが「解毒剤」と言った小さなビンだけが残されていた。


「さすが、『死神」と呼ばれるだけのことはありますね。全く、隙がありませんでした」
 ヴァルを介抱するアスラの横で、テンレンが呟いた。小雨が降ってきたので四人は世界樹の根元に移動していた。枝を大きく広げた世界樹の下には、雨粒は落ちてこない。
「ヴァルは大丈夫なのか?」
 シモンが聞く。アスラはヴァルの額に手を当てながら答えた。
「わからない。通常少しずつ慣れさせていく聖水を、一気に飲んだとすれば……ヴァルの精神がすでに崩壊してしまっているという可能性も、あるかもしれない……」
 そう言うアスラの声は沈んでいた。こんな事態を引き起こした、シュカの事を考えると信じられない思いだった。今になってビカラに寝返ったのか、とも思う。しかし、何故。アスラの疑問は深まるばかりだった。
「少し、待ちましょうか。ヴァル君は、きっと目覚めますよ」
 テンレンはそう言うと、世界樹の幹を背に、目を閉じた。
 アスラは必死にヴァルの回復を祈った。神にではない、何かに。どこかから、子守唄のような歌声が聞こえてきた。
 一枚の葉が落ちてきたのに気づいてアスラが上を見上げると、無数の枝を揺らして世界樹が葉を散らしている。何時の時代も決して枯れることがなかった世界樹だが、枝の先から老いた葉に特有の、乾燥した茶色に染まっていた。
「……『扉』のせいなのか?」
「そうですよ」
 誰にともなく聞いたアスラに、テンレンが答えた。
「この大地と、世界樹は運命を共にしている――だから、この大地が滅びゆくとき、この樹も枯れていくのでしょう」
 アスラは落ちた枯葉を手にとった。それはいともたやすく、小さな音を立ててアスラの手の中で粉々になった。
「時間が無い。テンレン様、そいつを置いていった方が早いんじゃないですか?」
 そう言うシモンに、テンレンは首を振った。
「彼を置いていったら、サラム君を助けに行く人がいないじゃないですか」
「え?」
 ヴァルが行かなくても――と言いかけたとき、テンレンが言葉を続けた。
「私とシモンは守りを固めている第三軍を切り開かなければならないし、場合によっては、あの第一軍とも戦わなければならないでしょう。アスラさんは、ビカラさんと戦わなければならない。――それぞれ、役目というものがあるんですよ。それに仮に、ヴァル君を置いていったとして、彼はきっと、怒るでしょう」
 テンレンの言葉はまるで、この戦いを生きて帰ることができないと言っているようなものだった。シモンは背筋が震えた。確かに、聖都第一軍と呼ばれている少数精鋭の軍――あれは軍というよりも殺人集団で、別名「ジェノサイドフォース」と呼ばれている――と戦う事になったとしたら、生き残る確率はテンレンでさえも、ほとんど無いと言っていい。敵の恐ろしさは、シモンも嫌というほどよく知っていた。
 何を言ってよいのかわからなくなったシモンを放って、テンレンは横になっているヴァルの額に手を当てた。
「世界樹の下へ来れば、何かが味方してくれると思ったのですが」
 世界樹はテンレンの言葉に呼応するように枝を揺らした。その度に無数の葉が舞い落ちる。辺りの地面は世界樹の枯葉で埋め尽くされた。
 ふいにヴァルの指が、ぴくりと動いた。目蓋が痙攣する。意識が戻ったようだ。
「ヴァル!」
 アスラが叫んでヴァルの顔を覗き込む。ヴァルは一瞬顔をしかめてから、目を開けた。
「……頭、痛てえ……」
「ヴァル、大変なんだよ! サラムが!」
 アスラが言いかけた途端、ヴァルが跳ね起きる。
「サラムが、何だって!? ……痛!!」
 ヴァルは頭を抱えこんだ。
 状況を説明されたヴァルは、唖然として、そして深く落ち込んだ。
シュカに騙されたことだけでなく、その結果サラムを危険に晒しているという事実に、自分を責めずにはいられなかった。けれども。
「落ち込んでる暇は無いですよ」
 テンレンの言葉に思考をさえぎられる。
「早くしないと、サラムだけでなく、この世の滅亡すら在り得るからな」
 シモンはそう言って、待っていられないとばかりに歩き出した。
 けれど、自分に何が出来るのだろう。
 ヴァルは足がすくんだ。
「ヴァルが行かないで、だれがサラムを助けてあげるんだよ!」
 アスラがヴァルの胸倉を掴んで無理やり立たせる。遠くに見える空には、再び黒い雲が押し寄せてきていた。

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