| 第二章 赤き契り

たくさんの薔薇が咲き乱れる温室で、黒髪の幼い少女は幾つかの花を選んでいた。強いグリーンの瞳はうつろに曇っていた。
「何してるの」
後ろから少女と同じくらいの、綺麗な身なりをした華奢な少年が声をかける。
「花束をつくるの」
少女は振り返りもせずに答えた。
「誰に?」
「あたしのためよ。あたしから、あたしへの贈り物。あたしはいっつも一人ぼっちだから」
少女は振り返って両手にいっぱい抱えた白と赤の薔薇を少年に見せた。
「あんたにもあげる」
少女はそう言って一本の赤い薔薇を少年の柔らかな栗色の髪の毛にさした。花飾りの似合うその姿に少女は少し笑う。
「こんな所にいたら、あたしいつまでたってもお嫁さんになれないね。王子様もいないし。誰もあたしのことなんか、ほんとに好きになってくれない」
少女はそう呟いて歩き出した。
「ねえ」
少年の声に少女が振り返る。
「僕が君の王子様になってあげるよ。だって僕は君の……」
たくさんの薔薇の花びらが、舞うように床に落ちた。
遠くから歌声が聞こえてくる。最初は夢の続きだとアスラは思ったが、目を覚ますと現実のものである事がわかった。
横にはシュカが寝ている。真夜中の車の中だった。前の席ではヴァルが運転席から助手席へ倒れこむようにして寝ている。アスラはサラムの姿が無い事に気がついた。
知らないふりをするわけにもいかないので、他の二人を起こさないように車を出ると、アスラは歌声のする方へ歩き出した。間違いなくそれはサラムの声で、アスラは彼がこんなにも美しい声をしていたのかと思わず感心した。けれど歌はとても哀しく、泣いているようだった。
歌声に近づいていくと、フェンスの上に座っているサラムがいた。サラムはアスラの足音に気づいたのか、びくっとして振り返る。
「……ごめんなさい。起こした?」
「ううん。……歌、うまいんだね」
ひょい、とアスラがフェンスにのぼると、サラムは照れたように笑った。けれどその頬に涙の伝った後を見つけ、アスラはため息をついた。
「……マリオラが、教えてくれたんだよ」
「へえ」
マリオラからの連絡は無かった。シュカは黙っていたが、クシティと戦ってマリオラが無事であるはずがない。アスラは言おうか言うまいか一日中悩んだが結局言えず、マリオラからの連絡を待ちつづけるサラムを見守るしかなかった。
「マリオラは、すごい歌が上手かったんだ。いろんな歌を僕に教えてくれた。楽しい歌、嬉しい歌、哀しい歌、それからうんと哀しいときに慰めてくれる歌」
アスラは「上手かったんだ」という過去形の表現に一瞬びくっとした。夜の冷たい風が二人に吹き付ける。やがて、サラムがぽつりと言った。
「マリオラ、死んじゃったんでしょ」
アスラは思わず顔をあげてサラムの顔を見た。サラムの表情は陰になってよくわからない。
「……僕は、聖者がどんな風に強いとか、そういうことは何も知らないけど、もうマリオラはいないんだってわかるよ」
「まだ、そう決まったわけじゃ……」
「感じるんだ。あの時、僕がマリオラを守れるくらい強かったらよかったのに。くやしくて、哀しくて、だから歌ってた。歌ってると、少し忘れるんだ。そういうこと」
寂しそうなサラムの肩をアスラは思わず抱きしめたくなった。あの時、最初に逃げる決断を下したのはアスラ自身だったから。他には生き残る手段は思いつかなかった。
「ごめん」
気がつくとアスラは謝っていた。
「何でアスラが謝るの。しょうがなかったんだよ。マリオラだって、しょうがなかったからああいう風にしたんだ。誰のせいでもないよ」
「あんた、いい子だよ」
抱きしめる代わりにアスラはサラムの頭を優しく撫でた。マリオラの代わりはできないけれど。
「マリオラに言われてたんだ。もしも私に何かあったら、テンレンって人に会いに行きなさいって。ホントはもうマリオラは無事じゃないってわかってたけど、皆に言えなかった。だから、僕はいい子じゃないよ」
「そんな事ないさ」
アスラは微笑んで見せる。
「……歌、聴いてくれる」
ぽつりとサラムが聞いた。アスラは頷く。月が見守る夜の中に、静かに歌声が響き渡った。
その歌を聞きながら、アスラは聖都のことを思い浮かべた。マリオラも、昔は聖都の人間だった。聖都にいた頃の彼女を知らないわけではない。彼女がすばらしい歌い手であることは聖都では有名だった。彼女の歌声は聞くものを和ませ、幸せな気持ちにさせたという。
そんな彼女が聖都から離反したということは、下層部の人間にこそ不思議がられていたものの、しかし上層部にとっては当然のことのように思われた。何故なら、彼女は『鎖』を作ることにすら反対していたからだ。彼女は四人の聖者の中で最も聖者らしい人間だったが、どうしてか彼女の考えはいつも神の思惑に外れたものばかりだった。
彼女の聖都からの離反は大きな波紋を呼び、彼女について出て行く者もいた。数年後席の空いた四人目の聖者にはリグというマリオラとは全く違うタイプの若い女がついた。
もしもマリオラがあのまま聖者の座についていたら、今の聖都とは変わったものになっていたかもしれない。おそらくマリオラ譲りだろうサラムの優しい歌声を聞きながら、そんな風に思った。
翌日、晴天の中で一行はサラムの言うテンレンなる人物に会いに行くために車を走らせた。サラム曰く「ざらーくさ」という所にテンレンはいるらしく、シュカの推測のもと、「ざらーくさ」は辺境の島、ザーラークシャではないかと判断された。
「ザーラークシャ、何とも縁がある土地の名前ですね」
サラムの記憶間違いをものともせず、推論をうちだしたシュカは唸るように言った。
「一体そこって何なんだよ?」
「カーダの信者じゃない、マイノリティの人間が集まってる所だよ。カーダの信者中心の政策や教育機関なんかじゃやってけないから、独自のコミュニティーを作り出したの。思想の自由なんて名ばかりだからね。マイノリティは固まらなきゃやっていけないんだよ」
「まいのりてぃ? こみゅに?」
「あー、いいんだよ、お前は深く考えないで」
アスラの語彙力に全くついていけないサラムをたしなめるようにヴァルが言う。マリオラの安否に関する話題は結局誰も口にしなかった。
「で、縁があるって?」
「はい。我々カーダ信者と彼らとで、過去に何度か衝突があったんです。聖都も何度か事件にかんでいて。いわゆる戦争のようなものですね。まあ、お互いの利益を考え、平和条約が二十年前に締結されたわけですが」
「戦争!」
「まともに歴史勉強してりゃわかることさ」
馬鹿にしたようにアスラが言い放つ。
「うるせえな! 俺もサラムも学校なんか行ってねえんだよ!」
「そうですよ、アスラ様。標準よりも下の下の基準に合わせて対等にお話をなさらないと、失礼ですよ」
「失礼はお前だ!」
かのごとく、なかなか楽しそうな雰囲気で、ヴァル達の車はザーラークシャに向かった。
ザーラークシャに行くためには港に行き船に乗る必要がある。その道の途中、車の右手にずっと世界樹を見ていた。
岩よりも堅い幹の肌。目いっぱい葉を広げたその大木のせいで常に付近の地面は冷たく湿っていた。その大きな身を支える根はどこまで深く、広くのばされているのか誰も知らない。しかしその根のおかげか、どんな暴風雨にさらされても、決して倒れる事は無かった。
サラムがマリオラに拾われた場所。
生み捨てたのが一体誰なのか、おそらく知る者はいないのだろう。親が育てる事のできない子どもは施設に必ず届けなければならないと法で定められていた。それ以上に、神聖なものとされる世界樹に子どもを捨てていく親はいない。神の前で罪を犯す事と同じだった。
けれど、生まれたばかりの姿で捨てられていたサラム。
聖都を捨ててきたばかりのマリオラは偶然見つけたその子どもを、自ら引き取って育てた。彼の事を、古い言葉で「大地」を示すサラムと名づけたのも、マリオラだった。
世界樹の姿を見て、ふとサラムは幼い頃に歌ってくれたマリオラの子守唄を思い出した。どんなに恐い夢を見ても、眠る事が不安でも、マリオラの歌声は天使のようで、心が温かくなった。
思わず、はら、と涙が伝って、あわててヴァルに気づかれないように顔をこする。ヴァルは心配性だから、とサラムは心の中で笑った。
ヴァルと初めて会ったのも、世界樹の木の下だった。以前そこに捨てられていたせいなのか、妙に懐かしさを感じるその場所にサラムはよく通っていて、その時にヴァルに出会ったのだった。
そんな事を思い出しながらヴァルの顔を見ると、ヴァルは視線に気がついたのか、サラムに笑いかけた。
「港にはもうすぐ着くぞ。腹減ったか?」
港でフェリーに乗り、東の島ザーラークシャへ向かう。船で約一時間ほどすると、どす黒い空の下に不思議な楽園が見えてくる。
ザーラークシャはかつて人の手によって捨てられた島だ。その捨てられた島の汚染を、一世紀近くかけて現在の住人が浄化した。住めない島だったはずが、今では自然豊かな楽園になっている。周りの海域の汚染や大陸側の大気汚染を考えると、今では奇跡の島に見えるほどだ。その豊かな楽園を観光しに訪れる大陸側の人間も少なくはない。
けれども一度その島に足を踏み入れると、そこは全世界を統合した宗教カーダに追いやられた人間ばかりで、早々に滞在を切り上げるカーダ信者も多い。子どもの教育を受けさせるにも、仕事をするのにも、生活するのにも全てカーダが関わってくる世界の中で、数少ないカーダを信じない人間は、閉鎖された独自の社会に逃げ込むしかない。そうした場所に選ばれたのがザーラークシャとその周辺の諸島だった。ザーラークシャは、唯一政府とほとんど関わらない形での自治が認められている。
彼らは、先祖代々の古い神を信じていたり、無神論者、またはただ単にカーダに不信感を抱いているなど、様々な種類の理由を持っていた。カーダ信者でない彼らは、自らの事を大地の民と呼んだ。
「それで、テンレンという人はここの何処にいるのですか」
フェリーを降りたところでシュカがサラムに聞く。サラムはよく覚えていないのか、眉を寄せた。しばらく考えた挙句、彼はこう答えた。
「確か、一番大きな街だと思う。ええと、白い、白い建物があるところ」
「行ったことあるのか?」
「うん、一回だけ」
ヴァルとサラムが会話を交わしているうちに、シュカはさっさと島の住人に声をかけていた。
「この島で白い建物があって、大きい街というのは何処ですか」
「ティティカのこと?」
海辺で働く女性は手を止めて立ち上がる。シュカの姿に気づき少し頬を赤らめて、大きく開いた胸元をしまった。
「役所とかある大事な街だよ。あんたがこれからここに住もうって考えてるのなら、はじめに行かなくちゃいけないところだけど。でも何だか知らないけど、今はカーダ信者の人間は入れないことになってるんだ」
「……そうですか」
シュカは頭を下げてその場を去ろうとしたが、もう一つ聞くことを思い出した。
「あの、テンレンという人はご存知ですか」
「ご存知も何も、有名な人だよ」
女は答えた。
「あの人はあたし達のために色々やってくれてるコミュニティーの執行部の一人さ。移民を快く受け入れてくれたりね。今もティティカにいるはずだよ」
「そうですか。ありがとうございました」
シュカは女に礼を言ってサラム達の所へ戻ってきた。
「今聞いたとおりです」
「じゃあ、後は行くだけだろ」
ヴァルは軽くそう言ってサラムがどう抱えてよいか迷っていたマリオラの剣を代わりに持った。
島の中は観光のためにバスが用意されていて、ティティカの近くまで行く事ができた。ザーラークシャの自然のほとんどは、世界樹の実から生まれたというガイドの話にサラムとヴァルは驚く。だから懐かしい感じがするのかとサラムは納得し、笑みを浮かべて他の観光客と同じように外の風景を眺めていた。
住人に案内してもらい、ティティカと隣町の境界まで行く。自治体の執行部が存在するティティカは完全に外界から遮断され、周りを堀と壁、そして高電圧電線によって囲まれていた。
「ずいぶん、厳重だな」
ヴァルが呟く。シュカも言葉どおり厳重な警備を見て少し首をかしげた。
「ティティカは移民に対して開放された街のはず。何だか、様子がおかしいですね」
ティティカに入るには一つの道しか存在しない。ティティカに入ろうとする人間は、関所のようなものを通らなければならなかった。
「何だか緊張しますね」
「シュカ、言動に気をつけろよ。あたし達が聖都の人間だって事なんかすぐにわかるんだから、下手な敵意を買うんじゃない」
「そういうつもりで言ったわけではないんですが」
睨みつけるアスラにシュカは肩をすくめる。サラムは何の気兼ねも無しに住人用のゲートに立っている役人に声をかけた。
「すいません。テンレンて人に会いに来たんですが」
「住民票を出してください」
「無いです」
「……」
役人は次の言葉が出なかった。サラムはそんな役人に気づかず、もう一度同じ事を言った。
「テンレンて人に会わないといけないんです。さっき人に聞いたらティティカにいるって」
「島の外からいらっしゃったんですか」
「はい」
関所の意味をおそらくほとんど理解していないサラムを見て、役人はため息をつく。
「現在、外の方をこの街にお入れすることはできなくなっています。それにどちらにしろ、テンレン様には滅多な事ではお会いできません」
役人は事実しか述べていないのだが、サラムは全くありえないと大声をあげた。
「えー、嘘だ! だって僕が小さい頃はマリオラとここに来たはずだし、テンレンて人にもあったことあるのに。誰が駄目って言うの?」
「島の長です」
「じゃあ、その人に言ってよ。僕はマリオラに言われてテンレンていう人に会わなくちゃいけないんだ。僕は外の人間だけどカーダの信者じゃないし、何にも悪い事しないんだからいいよねって」
なおもサラム食い下がる。役人はどうして良いかわからず、サラムの同伴者である人間に助けを求めた。
「ちょっと、どうにかしてくださいよ。この子どもはあなた達の連れですよね」
「ああ」
ヴァルが頷いた。
「サラム、そいつはお前が頼んでもいれてくれやしないよ」
「でもさあ」
「そういう奴はこうするんだ」
いつの間にか銃口が役人の方に向いていた。思わず青白くなる役人に、唯一まともそうなシュカが声をかけた。
「まあまあ、ヴァル君も悪ふざけは大概にしてください。役人さんも事情はあると思いますが、長の方に連絡を入れてみてはくれませんか。こちらも事情が事情ですので」
にこにこ笑うシュカの横に、銃口。さらにはその隣ですごい表情で少女が睨みつけている。目の前には捨てられた子犬のようなガキ。
役人は死にそうな声で「わかりました。少々お待ちください」というとその場を別の人間に任せて建物の中に入っていった。その姿を見てサラムが笑った。
「お願い聞いてくれたね」
「……あれは『お願い』じゃなくて脅迫っていうのさ」
呆れたような声でアスラが呟いた。
結局、四人はティティカの中に入る事はできなかったが、話を聞いた島の長がサラムに会うというので関所の建物の中で待たされた。
やがて多くの護衛を連れて島の長が現れた。名をゼンといい、大柄で五十代半ばの、人のいいおじさんといった感じの人物だった。ゼンが四人の前に座ると、護衛の人間は部屋の壁に沿って並ぶ。その雰囲気は異様で、まるで四人を包囲しているような形だった。
「君がテンレンに会いたいという、サラム君かね」
「はい」
「それではマリオラはどうしたのかね」
後ろでアスラが息をのんだ。サラムは答えない。
「君が本当にサラム君ならば、私は以前一度君と会っている。君が本当にサラム君本人だと証明できる何かを、君は持っているのかね」
「……」
サラムは困惑したような顔をした。自分が自分であることを証明するものなど、彼が持っているわけが無い。長であるゼンの後ろから、眼鏡をかけた黒い髪の若い男が出てきた。かなりの長身で、一見線が細く見えるが、無駄な肉の無い引き締まった身体をしていた。身のこなしから、おそらく軍人か、そのような訓練を受けた人間であることがわかる。
「そこの後ろの二人が聖都の人間、それもアスラと聖者シュカであることはわかっているんだ。お前ら四人を簡単に信用するわけにはいかない」
「こいつの言う通りだ。サラム君、マリオラはどうしたのか教えてくれないか。どうして一緒じゃないのかね」
サラムは唇をかんだ。部屋にずらりと並ぶ護衛達の警戒は薄れる事は無い。サラムは覚悟を決めて口を開いた。
「……亡くなりました。つい最近、ローザという街で戦いがあって」
「サラム!」
ヴァルが声を上げる。まさかサラムがそんな事を口にするとは。
サラムは曖昧にヴァルの方を向いて小さく笑った。
「……そうか。ますます君がサラム君だと証明することができなくなったわけだな」
残念そうなゼンの声に、先ほど前に出てきた背の高い眼鏡の男の視線がさらにきつくなる。ヴァルは、ふと思いついてマリオラが渡した剣を差し出した。
「この剣が、マリオラが死ぬ前にサラムにくれた剣だ。これでわかるだろ、こいつはサラムだ」
ゼンは剣を手にとってじっくりと眺めた。
「……確かに、これは我々が以前マリオラに渡した剣だ。間違いない」
しかし、眼鏡の男の視線はきついままだった。
「しかし、お前がサラムだという証明にはなっていないな。その剣は、そっちの聖都の人間と一緒にマリオラを殺した際に奪ったものかもしれん」
「この野郎!」
立ち上がりかけたヴァルの襟を掴んでシュカが無理やり座らせる。この状況では殺されかねなかった。
「じゃあ、一体何を以って証明しろっていうのさ」
アスラはそう言って長の隣に立つ眼鏡の男を睨みつけた。
「さあな。我々が信頼できる人間がそいつをサラムだと言うのなら信じてやってもいいが」
「信じられないならどうするの」
サラムが真っ直ぐな目で眼鏡の男を見つめた。
「……二度と我々の前に出てこられない姿になる」
「てめえ!」
二回目は完全に後ろからシュカに抑えられた形になったヴァルは、精一杯の怒りをこめて男を睨みつける。そんなヴァルに長はすまなそうに言った。
「ひどいことを言うようだが、我々にとってはとても重要なことなのだよ。後ろの聖都の人間であるお二方も気にはなるが、サラム君が偽者だったときにはもっと大変なことになる」
「サラムがそんなに重要なわけ? どういうことさ」
「お前達に話すようなことじゃない」
眼鏡の男にあっさりとそう言われ、アスラもさすがに頭にきたのか怒りの眼差しを向けた。部屋全体に緊張感が走る。そんなとき、サラムが立ち上がった。
「マリオラに教えてもらった歌を歌います。おじさん、それでいいかな」
「……」
長が答える前に、サラムは目を閉じて歌い始めた。
部屋に張り詰めた空気がとけていくようだった。
眼鏡の男は無表情のままだったが、長は目を細めてサラムの歌声を聞いていた。
やがてサラムが歌い終わると、長に一本の電話が入った。長は何度か頷いて電話を切ると、立ったままのサラムに拍手をおくった。
「今、ローザから逃げ出した仲間から連絡が入った。メイメイという女性だ。彼女に、サラム君が来ているかと聞かれた。それから、同行者に聖都のアスラ殿がいることも告げられた。それに――」
長はにっこり微笑んでその続きを言った。
「今の歌、確かに以前マリオラが歌うのを聞いたことがある。上手かったよ」
長はサラムの手を握った。あたたかい、大きな手だった。
「それでは、私は忙しいのでこれで。先ほどの無礼を許してくれたまえ。後はシモン、お前に任せたぞ」
そう言って長は護衛を連れて去っていった。四人の目の前に先ほどの嫌味な眼鏡の男が残される。アスラはともかく、ヴァルはまだ敵意を剥き出しにしていた。
「これで私たちはティティカに入れてもらえるんでしょうか」
「そうだな」
シュカの問いにシモンは答えた。
「しかし、テンレン様に会う事はできない」
「何だと! てめえどこまで……」
「テンレン様は行方不明だ」
掴みかかったヴァルを見下ろしてシモンは言った。
「行方不明? じゃあ、僕はどうしたら……」
「テンレン様からは色々話は聞いている。オレの師だからな。とにかく今からオレについてこい。話すことは山ほどある」
歩き出すシモンの後ろ姿を見ながら、ヴァルがぼやいた。
「あいつの師だなんて、テンレンて奴もろくな奴じゃねえんだろうな……」
「そんなことないよ。昔会ったけど、マリオラみたいにいい人だったよ」
「早く来い」
ヴァルとサラムのやり取りが聞こえたのか、シモンは苛立った様子で四人を振り返った。
シモンは四人を邸宅に案内した。高級住宅街のローザにあったような上等な屋敷だった。ここの所まともに屋根の下で寝ていないサラムとヴァルは、部屋を割り当てられるとすぐにくつろいだ様子でカードゲームを始めた。アスラとシュカは自分が聖都の人間であることを気にしてか、シモンが去ってからもしばらく落ち着かない様子だった。
「何賭けるんだ?」
「賭けるの!? やだよー」
サラムとヴァルが言い合いをしているそばで、アスラがため息をついた。
「落ち着かないな」
「そうですね。少し前までは戦争をしてた間柄ですから」
「シモンて言ったっけ、あいつ、あたしらに敵意剥き出しだっただろ」
「そうですねえ」
シュカは頷きながら部屋に置いてあったポットでお茶をいれ始めた。「お茶欲しい人いますか」と聞くと、すかさずサラムとヴァルがカードを片手に手をあげる。シュカは人数分お茶をいれるとそれぞれにカップを渡してまわった。
「それにしても、テンレンという人物は何者なんでしょうね。『神の再臨』を止めようとする人たちの頭なんでしょうか」
「だったら行方不明なのはおかしいよ」
「そうですよねえ」
どこかぼけた顔でお茶を飲むシュカの姿はやたらと板についていた。
突然ノックもされずにドアが開いてシモンが入ってくる。
「遊んでるんじゃねえよ」
部屋の中央でカードを広げているヴァルとサラムの二人に毒づくと、シモンはシュカとアスラの方に近づいた。
「お前らに聞きたいことがある」
「偶然ですね、私たちも聞きたいことがあったんですよ」
にっこりと笑うシュカにシモンは一瞬テンポを崩されたようだったが、全く動じない振りをして二人の前の椅子に座った。改めてみると秀麗な顔をした頭のよさそうな男だった。
「お前ら、カーダの重要人物のくせに何でオレ達の側にまわってるんだ?」
「私たちそんなに有名ですか」
「ああ、ニュースになってるよ」
いちいち話の腰を折られてやりにくい相手にシモンは舌打ちした。シュカに答えさせていると相手を怒らせかねないと判断したアスラは、自分から話し出した。
「あたしは確かに、『扉』を開くために作られたけど、それに賛同してるわけじゃないのさ。色々考える事もあって、一番最初に行動が起こされたとき、聖都を出た。それであたしより先に聖都を出た元聖者のライラ――今はマリオラか、に会いに行ったわけ。そしたらサラム達に会ったんだよ」
「ふん。それで、お前は?」
「はい。私はアスラ様の教育係でしたので、カーダの信者全てを敵に回したアスラ様を放っておくわけにはいかず……それに止められるものなら、『神の再臨』を止めたいと思っています」
シモンはそう答えたシュカをしばらく睨みつけるように見つめていた。
「聞きたいのはそれだけですか?」
「そんなところだな」
「では、私も聞いていいですか。ティティカのあの厳重な警戒、『神の再臨』と何か関係があるのですか」
ちっ、とシモンは舌打ちした。これだから軍隊上がりは、と呟く。それを聞き逃さず、
「軍隊上がり、というか、軍隊育ちなんですよ。あなたも同じなんじゃないですか」
とシュカがぼけた。シモンが睨みつける。
「ティティカの厳重な警戒は、『神の再臨』を前に、余計な問題をザーラークシャ内部で抱えたくなかったからだ。マリオラが帰ってきたのなら、その情報も漏れないようにしたかったしな」
「なるほど、それではテンレンというのは何者なんですか」
シュカが聞くと、シモンは「これからその話をしようと思ってた」と言い、カードをやっていたヴァルとサラムを呼びつけた。
「おいガキ、テンレン様の事を覚えているか」
「うん。マリオラみたいに優しい男の人だったよ」
「四歳のガキの記憶はその程度か」
頷くサラムにシモンはため息をついた。
「いいかガキ、お前はマリオラと二人で何度かここへ来ている。覚えてないだろうがな。テンレン様は、マリオラがお前にやったあの剣と同じものを持っている」
「『大地の剣』は二本あったということですか。初耳ですね」
「マリオラの剣の方は巧妙に隠してあったからな」
シモンは腕を組んで話を続けた。
「あの剣をもったテンレン様は最強だ。お前ら聖都の人間の聖なる力とやらは全く効かない」
「その話は本当ですか?」
「嘘ついてどうするんだよ。過去の大戦でオレ達は『聖なる力』や『聖水』についてとことん調べ上げた。そしてそれが一体何なのかも突き止めた」
「なるほど、それであの剣ができたわけだね」
頷いているアスラの後ろでは、あまり理解できていない様子のサラムが顔をしかめている。
「ガキや頭の悪いやつでも理解できるように説明するなら、要するに聖都の一部の人間は『聖水』を身体に取り入れることによって身体の一部を媒介にあの世の力を得るって事だろう。この世にとっては理不尽な力だがな」
「概ねその通りですね」
シュカの相槌がしゃくに障ったらしく、シモンの眉が上がった。シュカはそれが気にならないのか、見えていないのか、シモンの続きを得意そうに喋り始めた。ヴァルが一人で「頭の悪いやつって誰だ!」と突っ込んでいたが、誰も気にするものはいなかった。
「『聖なる力』はこの世にとっては理不尽な力、虚の力であるがゆえに恐れられるわけです。それに対抗するならば、その分の実の力を発すればよい。『大地の剣』が使われた現場を見ているわけではないから何ともいえませんが、おそらく原理はそういうことでしょう。どうやってその力を発するかは、私にはわかりませんがね」
勝手に説明を続けられて、シモンはかなり憤慨しているようだった。しかし、シュカの語ったことは間違ってはいない。その事がさらに彼を苛立たせた。
「まあ、要するにそういうことだ。しかし、剣がどのような力をどうやって発するかは、正直なところ俺もよくわからない。知っているのはマリオラとテンレン様の二人だけだ」
ここまでの説明から、完全にサラムは脱落していた。かろうじてヴァルがしがみついてはいたようだが。
シモンはさらに続けた。
「……本当なら、『神の再臨』を止めるために動き出すオレ達の司令部に、テンレン様とマリオラが加わるはずだった。だがテンレン様は一年ほど前から行方不明、マリオラは死んだとなれば、事は難しくなるばかりだ。そういうわけでサラム、お前が来てくれたことに感謝している」
「そうは見えなかったけどな」
いまだにシモンに悪い印象を抱きつづけるヴァルが言った。シモンは薄い眼鏡の奥から鋭い目でヴァルを睨みつけると、
「そこにいる奴はどうでもいいが、戦力や情報になるカーダの人間だった二人を連れてきてくれた事に感謝する。今日はゆっくり休んでくれ。明日からまた話さなければならない事も多い」
そう言ってにこりともせずに部屋を出て行った。
「あいつ絶対友達少ねえぞ」
ヴァルが後ろ姿を見ながら呟くと、「そうかなあ」とサラムが答えた。
久しぶりに屋根の下で迎える夜。遠く晴れ渡った空を見上げてサラムはテラスに立っていた。少し前までカードゲームに付き合っていたヴァルも同じように立っている。こんなに星が散りばめられた空は見たことが無かった。
「お前さ」
呆けたように首が痛くなるまで上を向いていたサラムは、ヴァルの声に振り向いた。
「マリオラが死んだってわかってたのか」
「わかってたわけじゃないよ。ただ、多分そうだと思う」
「何で言わなかった?」
「……アスラも、シュカも知ってたみたいだし……」
呟くように言って、またサラムは上を向いた。その姿は宝石のような星が落ちてくるのを待っているように見えた。
「お前が言わないから、俺は多分まだ……」
「うん、ごめん」
特に感情を込めない声だった。上を向いたまま表情がわからない。少しの風にシャツの裾が揺れた。
「俺さ」
自分を見ようとしないサラムに向かってヴァルは続けた。
「お前には感謝してるんだ。あの世界樹の下で会ったときにさ――」
ヴァルがはじめてサラムに会ったのは、サラムが九歳のときだった。マリオラに連れられて五番街に来たばかりの頃。世界樹の下で座り込んでいるヴァルにサラムが声をかけた。
『何してるの』
『うるせえ。撃ち殺すぞ』
これが最初の会話だった。鼻先に銃を突きつけられたサラムは目を丸くし、目を赤く腫らしたヴァルを見つめた。ヴァルはたった一人の肉親である母親を亡くしたばかりだった。それもマフィアの組同士の争いに巻き込まれて。ヴァルが誰かれ構わず撃ち殺し、五番街に名が知れ渡ったのはその日の事だった。
『僕を殺しても、その人は帰ってこないよ』
思いがけないサラムの言葉に、ヴァルは銃をおろした。
「あの時お前を殺してたらって思うと、ぞっとするんだ。ずっと俺は孤独で、誰かを殺してたんじゃないかって」
いつの間にかサラムがヴァルを見ていた。
「だから、あの時お前が俺にしてくれたようにできるかわからないけど、お前がもし苦しんでるなら……」
「……うん」
サラムの目から何か光るものがすうっと落ちた。
「……ヴァルはさ、きっと心配するから、だから言わなかったんだ」
「ああ」
「マリオラの分も、戦わないといけないのに……」
「明日までに立ち直ればいいんだよ」
「うん」
ヴァルに頭を撫でられて、サラムは目をこすりながら頷いた。
窓辺で、アスラは黒髪を梳かす手を止めた。ふとした彼女の変化に気づき、二人分のお茶をいれていたシュカもポットを置く。
「……全く動きが無かったな」
「ビカラ様のことですか?」
「そう」
窓から離れ、櫛を置いてアスラはシュカのいれたお茶のカップを手に取った。琥珀色の液体が揺れる。
「おそらく私がアスラ様の側に回ったのがわかったからでしょう。今ごろ他の三人の聖者とこれからどうするか話しているところじゃないですか」
「お前はどうして」
問いかけようとしたアスラにシュカが顔を上げた。アスラはつらそうな顔をしていた。
「――どうして、お前はビカラを説得しようとしなかったんだ」
「アスラ様に出来ない事が私に出来ると思いますか」
「だってお前なら、――お前なら出来たはずだ。こうしてあいつと戦う側につかなくても」
「アスラ様」
カップをひざの上に置いたアスラの手は少し震えていた。
「私にはビカラ様を説得することなどできません。あの方の気持ちを変えられるのはアスラ様だけだからです」
シュカはきっぱりと、そう言いきった。
「アスラ様こそ、何故聖都にいる間にビカラ様を説得しようとはしなかったのですか」
逆に、今度は同じ問いをシュカが投げかけた。
アスラはカップのお茶を口に含んで、少し答えるのに間を置いた。そして目線を落としたまま口を開く。
「――できなかった」
カップから白い湯気が立ち昇っていた。ふう、と息を吹きかけて、またアスラがお茶を口に含む。
「もっと早く行動が起こせたはずだったのに、それもできなかった」
「何故、なんですか」
「恐かったんだよ。多分、ビカラも」
「戦うことがですか」
「違う」
アスラは半分くらいになったカップの中身を見つめた。
そんなアスラの姿を見て、シュカは勝手に、彼女が「恐かった」と言ったことの中身を推測した。
「『神の再臨』は勝手に聖都の人間が定めたことであって、それを行うか否かはアスラ様とビカラ様の意思によってどうにでもなることです。逆らうことが間違っているわけではありませんよ。ビカラ様も、ご自分の意思で『扉』を開く決意をされたはずです」
シュカはそう言ってにっこり微笑んだ。彼は昔からアスラとビカラを慰めるときにそんな風に微笑んだ。緊張が緩んだ気がして、アスラは細く息を吐き出した。
「でも、意志によってどうにかなることと、ならないことがあるんだ」
「……何がですか?」
シュカの問いに、アスラは「何でもない」と答えた。
「あたしさえいなければ、良かったのにって、時々思う」
「……」
「どうして、『鎖』は二本でなきゃならなかったのか、あたしにはよくわからない」
思いつめたようなアスラの問いにシュカは答えることが出来ず、黙って目の前のカップを見つめた。
シュカが教育係としてアスラとビカラの前に現れたのは、アスラ達がこの世に「生まれて」から六年目のことだった。
『鎖』としての力によって彼女たちの世話係を含む何人もが殺され、その事情を踏まえて選ばれたのがシュカだった。当時シュカは、二十台前半で第一軍を束ねる『聖者』の位を継いだのだった。
第一軍という聖都で最も強力な軍隊を束ねる聖者は、同じく最も恐るべき強さを持っていなくてはならない。その聖者の地位はその恐ろしさから『死神』と呼ばれることもあった。そして、『死神』の位を継ぐものはそれ相応の訓練と教育を受けねばならず、シュカはそのような中で育てられた人材の一人であった。
念願叶って『死神』と呼ばれる聖者の位についた彼は、その尋常ならざる強さを認められ、アスラとビカラの教育係に任命された。いくら『鎖』の力といえども、『死神』をそうやすやすと殺すことはできないだろうという算段である。
「新しく聖者の位についたシュカです。アスラ様とビカラ様の教育係を務めさせていただきます」
そう、アスラとビカラにシュカを紹介したのは高齢のゾラだった。この時からすでに九十歳を越えているのではないかと噂されていたほどの高齢である。
はじめてアスラとビカラの前に現れた教育係は、およそ『聖者』という地位の名前からは考えられないほどに冷たい顔をしていた。まさに、『死神』のようであった。ゾラから「必要以上に『鎖』の二人と近づいてはならない」と言われていたせいでもあったが、長い間過酷な訓練に耐えてきた彼の人間性そのものが『死神』だった。
ゾラは紹介もそこそこにその場を離れ、シュカと二人が残された。シュカは会釈して挨拶をしたが、にこりともしない。それが子供だったアスラの癪にさわった。
もともとアスラは聖都の人間が大嫌いだった。ゾラを含め、必要以外のことを誰も喋ったりしようとしない。子供のアスラを可愛がろうという素振りも見せなければ、逆に怯えているような聖都の人間が大嫌いだった。事あるごとに『鎖』としての力が暴走したというのも、アスラにとってみれば半ば故意でやったことであった。
「よ、よろしくね、シュカ」
少し怯えた素振りを見せながらも、手を差し出したのはビカラだった。
ビカラはアスラと同じように聖都の人間が好きではなかったが、彼女のように端から嫌っていたわけではなかった。努力すれば仲良くなれるかもしれない、そんな期待がもてるだけの子供らしさがあった。
けれども、アスラにとってはそんなビカラの態度すら、癪にさわった。
「こんなやつ、嫌いだよ!」
「え、でも」
「嫌い! 早く帰ってよ!」
アスラはありったけの声を張り上げて威嚇した。隣で手を伸ばしたままのビカラが困惑した表情を見せる。そんな二人の子供を前に、シュカはにこりとするわけでもなく。
「仕事ですので、帰るわけにはいきません」
と、さらっと言ってのけた。アスラの表情が変わる。真っ黒な髪の毛が逆立ったようだった。
「駄目だよ、アスラ!」
抑えようとするビカラを跳ね除けて、アスラは力を使った。今までの人間にそうしてきたように。こうすれば、みんな逃げるか、死ぬか、どちらかだった。なのに。
「何で……」
アスラが肩で息を切らせているのに、シュカは平然とした顔でその場に立っていた。
「何で死なないの」
「確かに、恐ろしい力ですね」
パンパン、と両手で服についた埃を払いながらシュカが言った。
「けれども、力の使い方を誰にも教わっていないのですね」
アスラは、初めてかなわなかった相手を見上げて、唇を噛んだ。涙が出てくる。
そんなアスラとシュカを交互に見て、突然ビカラが声をあげた。
「すごい! すごいよ、シュカ!」
そう言って、嬉しそうにシュカに飛びつく。けれども何故かそれをシュカがよけたので、ビカラは仕方なく彼の手を握った。
「すごいね、アスラに負けないなんて、すごいんだね! どうしたらそうなれるのか、僕達に教えてくれるの?」
嬉しそうな表情のビカラに、シュカは戸惑っているようだった。その向こうでは、アスラがまだくやしそうに泣きべそをかいている。こうして、記念すべき最初の授業が始まったのだった。
それから毎週四回、この『死神』先生が二人のもとへ通うようになった。
聖典の授業の時も、他のどの授業の時も、いつもシュカは授業の内容だけを型通りに教えて帰っていくだけだった。それでも、ビカラは最初のアスラとの戦いを見たせいもあって、彼を無条件に尊敬する存在と見なしていた。
毎日毎日シュカはすごいよね、と聞かされるアスラもはじめのうちはうんざりしていたが、こんなに定期的に長時間会う人間が他にいなかったのもあって、いつしか好意的に見るようになっていた。
シュカにとってみれば、これが訓練や戦い以外のはじめての仕事だった。ましてや、子供の相手など経験したことも無い。どんなに彼が冷たくて、訓練によって育て上げられた軍人で、上からの命令は絶対に聞く男であっても、子供になつかれてそれを無視しつづけるのは至難の技だった。
はじめは「必要以上に近づく」ことを命令どおり避けていたが、それが三年、五年、ともなってくるとそうはいかなくなってくる。
こうして、『死神』シュカは『死神』ではなく、ただの人間になったのだった。
翌日、騒々しい外の動きにサラム達が目を覚ますとまだ外は明け方だった。
「何だ?」
ヴァルが外の様子を見に行こうと窓に近づいたとき、荒々しくドアが開かれた。
「緊急事態だ」
シモンは息を切らせていた。
ザーラークシャ諸島に渡る陸側の港は全て閉鎖され、聖都の人間達が集まっていた。
突然出た聖都からの命令により朝の漁に出る事ができなかった漁師達は口々に囁いていた。『神の再臨』を前に、再び『大地の民』と戦争を始めるのではないかと。
家から好奇心半分で事の成り行きを見ていた彼らだったが、『鎖』の一人、ビカラがここに現れるというのを聞きつけると一目見ようと誰もが家から飛び出していた。港は非常に騒がしい状態になった。
その様子をいち早く発見したザーラークシャの住民はすぐにそれを伝え、最寄りの港に集まっているのが聖都第二軍であることがわかった。
「第二軍は、聖者リグが配下に置く軍です」
元聖都の重要人物だったシュカが説明した。突然呼び出された会議室には島の長を始めシモン、他に島の重役らしい人間が集まっていた。
「その他の聖都の軍と違い、第二軍は現在通常の兵器を用いる軍隊として編成されています。聖なる力を使う事はありませんが、世界中で最大の力を誇る戦力だと私は思っています」
「それがどうしてこんな所に……まだメイメイ達も到着していないというのに」
長はそう言って頭を抱えた。
「休戦協定の手前、聖都から戦争をしかけることは公にはまずありえません。攻撃はしてこないでしょうから、しばらく様子を見てはいかがでしょうか」
以前自分も軍を従えていただけあって、落ち着いた様子でシュカは長に提案をした。背後でアスラが動いたのを感じて、シュカが振り返ると、アスラは呟いた。
「ビカラが来ている……」
「え?」
同じ時、会議室に一人の男が入ってきた。
「聖都のビカラが、この島に上陸しようとしています。アスラ殿に話があると」
「ほら」
出て行こうとしたアスラの肩を、シュカがひきとめた。
「……それで、ビカラ様は大勢の軍と上陸する様子ですか」
「いえ、単独で。軍は大陸側の沖で待機しています」
「行ってくるよ」
シュカの手を振り払うと、アスラは先ほど会議室に入ってきた男を伴い、部屋を出て行った。会議室内がざわめく。
「どういうことかね」
「おそらく、ビカラ様はアスラ様を連れて帰るおつもりでしょう。軍は我々に対しての威嚇のみ。あのお二人の間で、何も無くすめばの話ですがね」
「もしも、何かあったら……」
「私も行ってきましょう」
不安そうな長を残し、シュカも険しい表情でアスラの後を追って部屋を出た。
島の海岸線沿いには何人も警備の人間が張り巡らされていた。警戒態勢のとられた船着場に一隻の小型船が着いている。聖都の印が施されたその船の横に、兵士を連れた線の細い、一人の青年が立っていた。ビカラだった。落ち着いた足取りで近づくアスラに周囲がざわめく。
ビカラは白い裾の長い服を着ていた。戦いに来たのではないその姿に、アスラは内心安堵の息をもらした。海の強い風が二人の間に距離をつくる。空は青く澄み渡り、まだ若い陽の光が低いところから全てを照らしていた。
「迎えに来た」
アスラと同じ澄んだ翠の眼差しでビカラは言った。やわらかい薄い色の髪が揺れる。今ここで戦いが起きそうな緊迫感とは全く違う、まるで本当に迎えに来た家族のようにビカラの声は穏やかだった。
「あたしを殺そうとした奴がよく言うよ」
「悪かった。でもクシティ達には本気でしてもらわないといけなかったんだ。何としても元聖者のライラ=ベルだけは片付けなくてはならなかったから。でも結局シュカが助けに行ったんだろ。あいつのやる事はすぐ予想がつく」
そう言ったとき、ビカラはアスラの後ろに視線をやり、くすりと笑った。アスラが振り返るといつの間にかシュカがいた。
「アスラ、帰ろう。『扉』を開くんだ。これは全てのためでもあり、そして君のためでもある」
ビカラの声はあくまで優しく、柔らかい。吹き荒れる風にアスラは巻き上がる黒い髪を押さえた。
「ビカラもわかってるはずだよ。神を再臨させたら……」
「いいかい。僕は君を迎えに来たんだ。言い争いをするためじゃない。君は今から僕と聖都に帰ればいいんだ」
ビカラは手を差し出した。
「あたしは、たくさんあんたに話したい事がある。でも、聖都には帰れない。『扉』を開くのには絶対に反対だから。こうして出てくれば、あんたの気が変わると思ったんだよ」
「わかってるはずだ。これは、全人類のためであり、僕らのためだ。やめればどうなるか……」
哀願するようなビカラの眼差しにアスラの胸の辺りが痛んだ。ビカラとは戦いたくない、それがアスラの本音だった。
「君とは戦いたくない」
自分の心のうちをビカラに先に言われ、アスラは戸惑った。ビカラの右手は差し出されたままで。波の音が答えを急かす。どちらにしろいつかは言わなければならなかった。
「あたしは……」
ゆっくりアスラの右手が上がる。
「……全人類を犠牲にはできない」
バアン、と大きな音がしてアスラとビカラの体が何かにはねかえったように宙に浮いた。アスラが聖なる力を使ったのだ。寸での所でそれを防いだビカラも、体勢を立て直す。
「今のは宣戦布告と見なしていいんだね」
「……好きなようにすればいい」
「僕は戦うことにする」
呟くように言ってビカラは大きく光る弾をアスラに向かって飛ばした。アスラは右手を大きく振るようにしてその一撃をかき消す。後ろで傍観しているシュカが口をはさむ隙間は無かった。
「けれど、これは君を救うためだ。覚えておいてほしい。……もしも、気が変わったらシュカを連れて聖都に帰ってきてくれ」
ビカラはそう言うと、白い裾の長い服を翻して船に乗り込んだ。それを止めようとシュカが船に駆け寄ったが、ビカラは小さくシュカに手を振ると、船を出した。船はあっという間に大陸側の軍船の中に消えてゆく。アスラはその様子を見送りながら深くため息をついた。
「アスラ様! あんな事になって……これからどうなると思ってるんですか!」
最悪の事態を止めるつもりでついてきたものの、結局何もできなかったシュカがアスラに詰め寄る。アスラはどこか力の抜けた表情でシュカを見上げた。
「知ってる……戦争だろ。相手はまだ若い女のリグだ。お前なら何とかなるだろう」
「そういう問題ではないですよ! 本気でビカラ様と戦うおつもりなんですか」
「……聖都を出てきたときからそういうつもりだった。お前は違うのか?」
「……」
シュカは答えられなかった。わかっていたとはいえ、実際にそれが現実のものとなると複雑な気持ちにならざるをえない。ビカラが聖者リグにこの事を伝え次第、聖都第二軍は本格的にザーラークシャを包囲するのだろう。シュカは一度海の方を振り返り、アスラが戻っていったティティカへと歩き出した。
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