序章

 

 様々な薬品が並ぶ棚に囲まれたテーブルの上で一人の男が頭を抱えていた。
 テーブルの上には一つのシャーレが置いてあった。
 男はメガネの奥のくまのできた赤い目に何故か涙を溜めていた。シャーレを手に取
り、ダッシュボードに入れようとして、ため息を吐く。
 そんなことをすれば自分だけでなく自分の家族までが殺されてしまう。それは彼自身
が一番よくわかっていた。
 シャーレを持った指が震える。
──できない。
 男はそう一言呟くと、もう一度シャーレをテーブルの上に戻した。念のためにもう一度
顕微鏡でシャーレの中の物体を覗く。
 何度見ても結果は同じだった。
 これが何を引き起こすのか、そんなことは分かり切ったことだった。でも、彼は捨てられ
なかった。たかが自分と、自分の愛する妻と子どもの命のために。
 男は自分が悪魔のように思えた。
 そうであるならそうであった方がいい。
 このちっぽけなシャーレ一つを捨ててしまえば済むことなのだから。たかが3人の人間が
死ぬだけの話だ。
 でも男はそれができなかった。
 このシャーレの中身の物体の行く末を考えると生きる気がしなくなってくる。
──何故自分はこんなことをしているんだろう。
 今更考えたって遅い。もう全ては始まっているんだ。
 男は自分に強く言い聞かせる。
 それでもこれから先、生きていく気力はなかった。
 これからの悪夢を見るくらいなら、死を選びたいと痛切に願っていた。自分の大切な家族を
置いてでも。
 もう一度シャーレの中の物体を見つめる。
 それはそんな男をあざわらっているかのように見えた。
 テーブルの電話が鳴る。男はそれを取ると、『Yes, sir』とだけ答えた。
 数分後、男のいた部屋のドアが開いた。
 暗い部屋に光が入る。
 男は決意を固めていた。
 悪夢から、逃れるために。
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