「ここにもいない……ああ、あいつどこ行ったんだよ」
ヒイロは二階の部屋を探し回りため息をついた。
ふと窓の外に目をやると、車が何台も止まっている。
「も、戻ってきた……」
もうダメか、と思ったヒイロの視界にケンが入った。
ケンは急いで階段の方から上がってくるようだった。
「……」
ヒイロは何を考えたか、非常階段の方に飛び出していった。
「ケン!」
後ろに二人従えて階段を駆け上がっていたケンは、ヒイロの姿を見つけると立ち止まった。
「……丁度いいや。こいつは僕がやるから、お前達は上の階にいるネズミを始末してきてくれ」
ケンがそう言うと、後ろの二人はヒイロの横をすり抜けて上の階に上がっていった。
「あのウイルスを……ウイルスをばらまいてどうする気なんだよ」
「決まってるだろ。ばらまいて、みんなを殺すんだよ」
「みんなを殺すって……そんなことしてどうするんだよ」
ケンはヒイロの真剣な顔を見て、にや、と笑った。
「ロジャーの事、知ってるか」
「……?」
「あいつは、世界で初めて出来た男性のヒトのクローンなんだ」
「何嘘言ってるんだよ!」
ヒイロは一体ケンが何を話しているのかわからず、とまどった。
「アンドリュー・レイモンドのクローンなんだよ。頭のいいレイモンド博士の知能を科学の発展のために使いたくてね、初めて男のクローンができた。雌の動物のクローンや女のクローンがわりと簡単にできるってことはそれまでにも実験済みだったんだけどさ」
「ま、待ってよ。だってクローンは法律で禁止されてるはずじゃ……」
ヒイロの頭は混乱するばかりだった。
「禁止される前に科学者達が実験に成功したんだよ。人間は、できることがあるなら何でもやってしまうみたいだね。それがいいことか悪いことかっていうのは後から他の人間が決める」
「俺が聞きたいのは……」
「ロジャーがどうしてあんなに天才なのか疑問だったんじゃない? よかったね、死ぬ前に謎が解けて」
ヒイロは目の前で馬鹿にしたように笑うケンが恐ろしかった。一体こいつは誰なんだろう。自分が話している相手は本当に人間なんだろうか。そんな疑問さえわいてきた。
「……何でそんな話するんだよ……ロジャーがクローンだからって、今さらそれと俺と何の関係があるんだよ?」
ヒイロはケンの意図するところがわからず、聞き返した。
ケンはいやな笑いを浮かべると、こう言った。
「ちょっと話してみたかっただけだよ。君も医大に通ってるんだし。興味深い話だとは思わないかい? ……確か頭がいいんだよね、君のクローンも作ってみたいとか思うだろ?」
「思わない。俺がもう一人増えたところで、楽しいことなんかないし」
「でも『やってみたい』だろ?」
ヒイロはなんと答えていいのか返答につまった。するとケンは続けてこう言った。
「君の大学では何の研究をしてるんだっけ。細胞の老化についての研究だっけ? 老化をとめられるならやってみたいだろ? 技術面で可能なことは何でもやってみたいんだよな、そうだろ?」
「それと、ロジャーがクローンだってことと……」
「関係あるさ。お前みたいな奴がクローンなんてものを考え出したんだから」
そう言うと、明らかに敵意のある眼でケンはヒイロを睨み付けた。
机の上に一つの日記帳があった。
まだその頃幼かったケンは不思議そうにその日記を手に取った。
名前が書いてあった。自分の名前が。
中を開くと、見たこともない絵と、文字が書かれていた。
『きょうは おとうさんと どうぶつえんにいきました』
ケンは首を傾げた。
自分は父と動物園なんて行ったことはない。
動物園はおろか、公園に遊びに行ったことすらも。
父親はいつも自分に勉強をさせるだけだ。だから同年代の知り合いもいない。
もう一度ケンは日記帳の表紙を見た。自分の名前が書いてある。
──でも、ぼくのじゃない。
日記帳を閉じると、ケンは道具箱を開けた。
はさみも、のりも、鉛筆も、全部二つずつあった。
自分じゃない誰かがこの家に自分として存在していることを、薄々ケンは感じ取っていた。
──だれだろう。
両親が何か隠していることも薄々気づいていた。
それはきっと聞いてはいけないことだろうと思っていた。
しかし。
──ぼくはおとうさんとどうぶつえんにはいっていないのに。
ケンはリビングに向かった。
ドアを開けると、ケンはすぐにこう聞いた。
「ねえ、あのにっきちょう、ぼくがかいたのじゃない」
父親は振り返ると、「読んだのか」と聞いた。
「だれなの、あれ。ぼくだけしらないの? だれかいるの?」
「部屋に戻りなさい」
有無を言わせぬ口調で父親はそう言った。
ケンが扉を閉じると、扉の向こうから父親のため息が聞こえた。
「うまくいくと思うか」
問いかけは母親に対してのものだった。
「『今の』あの子の方が、並みの子よりも賢くなってくれれば。……でも、本当にいいのかしら。あんな事をして大丈夫なの?」
「心配するな。血眼になって救世主とかいうのを探しているメーソンに見せれば、あいつらはキリストでお前はマリア様だ」
今度は母親のため息が聞こえた。
「でも……やっぱり無理よ。『今の』あの子の方に体を返してあげましょうよ。そのうちどうにかなってしまうわ。大体おかしいわよ、一つの体に脳を二つ植え付けるなんて自然の摂理に反してるわ」
「今さら何を言ってるんだよ。そういうことができる世の中なんだからやったってかまわないじゃないか。それにこれから莫大な富が手に入るわけだし、悩むのは今のうちだけさ。あいつらだって感謝するに決まってる」
ケンは今の話が全て理解できたわけではなかった。
ただ、何か自分が悪いことに利用されているということと、自分の中に誰か知らない人間がいるということに対して得体の知れない恐怖を感じていた。
──ぼくはふつうのにんげんじゃないんだ
一番強く感じた思いが、その後ずっとケンを縛り付けていた。
「俺はメーソンの一部が考えてるようにウイルスを利用して世界をどうこうしようなんて思っちゃいないさ。メーソンだってその組織力を利用できるから利用しているだけ。俺が望んでいるのは全てを屠ること。特に人類を、だけどね」
「だから、何でそんなことを……」
「ふふ、俺が救世主なら、神の意志だからなんじゃない?」
そう言ってケンはおかしそうに一人けたけた笑い続けた。
そしてひとしきり笑い終えると、ケンは銃を手に取った。
「ま、待って。まだ納得がいかない。ケンが、こんなことをするのは……ただ君が狂っているから? それが理由?」
ケンは銃を構えて、それから動作をとめた。
「聞きたい? 聞いたら同情して素直に死んでくれるかい? そしてできるだけ残酷に死んで……あいつから俺を自由にしてくれる?」
「……あいつ……自由……?」
ヒイロはすぐにはケンの言っている意味が分からなかった。
あいつ? あの……いつもの、ケンの方か……?
「俺の最も邪魔な双子の弟」
双子? 何だって?
「そんな複雑な顔するなよ。……俺の親父が欲望に駆られて作り出したのが俺とあいつの双子の兄弟。母親はメーソンの基盤となる24家族のうち最も重要なロスチャイルド財閥の家系。親父はそのメーソンの莫大な富に目を付けた。その頃メーソンが血眼になって探していたのが退廃の時代に現れる救世主。馬鹿なあいつは人間が神になれるか実験をしてみた」
「……」
「ようするにキメラと同じ事をするのさ。一卵性双生児がまだ胎内で成長する前に取り出して、片方の脳を片方に移植する。そして二つの脳を埋め込んだ胎児をまた胎内に戻す。それがうまくいけば、二面性をもったキリストと同じ救世主ができるんじゃないかって。馬鹿なことにそれがうまくいってしまったんだよ。おかげで俺の身体は、あいつと共同使用するはめになった。物心ついて薄々俺の身体が何かおかしいと気が付いた頃、親父の馬鹿な計画を聞いてしまった。それでどうなったと思う?」
ケンは目の前で立ちつくしているヒイロを見た。
「もちろん親父を恨んだのは言うまでもない。いつか必ず復讐してやろうと思った。それにも増して親父のその馬鹿な欲望を実現できる今の技術に腹がたった。望めば、金さえあれば人間は神にだってなれる。それが奴の口癖だった。言うたびに首の骨をへしおってやろうかと思った。その対象が、全人類に広がるまで二年とかからなかった」
ケンはそこで口をつぐんだ。
「そんな……そんな話って……」
「さあ聞かれたことは全部答えたよ。今度はお前が約束を守る番だ。俺に同情して死んでくれ。そうすればあいつはもう目を覚まさないから」
「ケン、でも……ウイルスをばらまいて人類を殺しても……」
「これは僕の人間に対する復讐だよ」
ケンの銃口がヒイロに向けられる。
「そして君は、今死ぬ」
ヒイロは動かなかった。
『お前なんか死んじまえ!』
日記のページには大きくそう書かれていた。
自分の字ではない。
自分の体なのに見たこともない傷跡があったり。
誰なんだろう。誰がいるんだろう。
父親の自分に対する態度が少しおかしいときがあった。
自分が話しかける前に一瞬の戸惑いがある。
「お前……ケンか?」
何を言ってるのお父さん、僕だよ。
すると安心したように息をつく。
どうしたっていうの。ねえ、何か怖い人がいるの?
日記のページには、また知らない文字が増えていた。
『お前なんか出て行け! 僕の体を返せ!』
ある日母親がキッチンで刺されて死んでいた。
その日家にいたのは自分と母親。
服についている血。
僕じゃない、僕じゃない!
そして学校の先生が殺された。
僕じゃない、僕じゃ……
そして大好きな父親。
もうやめてよ! もう殺さないで!
──これで……やっと一人に……
ケンは引き金に指をかけた。
不意に意識が揺らいだ。
──させない。
銃口が火を吹いた。
斜めに身体が傾いて、それから階段の下に落ちていった。
正面玄関から派手な銃声が響いてきた。
すでに二つ目の部屋に入っていたクリスは、一瞬様子を見ようかどうか戸惑う。
「畜生、若いもんに任せるって……あいつ、死んだらどうするんだよ……」
手元にある箱を地道に次々と確認しながら、クリスは唇を噛んだ。
「……もう一回死んでるくせに……」
そう呟いたとき、奥の金庫が目に入った。