第四章

「ほ、本当だって。ウイルスに欠陥があるみたいなんだ」

 ロジャーは研究室の前で関係者と話していた。

「……本当なんだろうな?」

「本当だって言ってるだろ! だからちゃんと確認したいんだよ。そんなに時間はかからない。だから中に入れてくれってば!」

 ロジャーは両手の拳を握りしめていた。

「そんなこと言われてもなあ……。俺はお前を研究室に入れるなって指示を受けてるだけだし」

「だから頼んでるんじゃないか! 本当にお願いだよ」

「どうせお前そのうち死ぬんだぜ。今更ウイルスなんてどうだっていいじゃないか」

「それは困る」

 ケンが立っていた。

「ウイルスは完全なものじゃないといけないんだ。だからそいつを研究室に入れてやれ。これは命令だ」

「あ……イケガミさん」

 白衣を着た関係者はケンを見て頭を下げた。

「じゃ、じゃあ……鍵を渡すよ」

 関係者は鍵をロジャーにわたすとそそくさとどこかへ消えていった。

 ロジャーはその鍵を鍵穴に差し込む。

「……ヒイロはうまく逃げたよ」

「……!」

 ロジャーが振り返った。

「ウイルスに対抗する薬……何か、思いついたんだね。なるべく早く頼むよ。僕が……あいつを抑えていられるうちに」

 ロジャーは頷くと研究室に入っていった。

 

 

 パチパチと暖炉の音がする。

──ここはどこだろう。

 木の匂いがした。天井に小さなランプがつるされている。

 ヒイロは身を起こした。

 どうやらどこかの家にいるみたいだ。

 ドアが開いて見知らぬ子どもが入ってきた。

「あ! もう大丈夫なんだ」

 ヒイロはわけもわからずぽかんとしている。

「すごい雨だろ。あっちこっちで土砂崩れがおきて道路が塞がれて大変なんだ。あんたも一緒に埋もれてたんだよ。でもよかったな、生きてて。ああいうので死んじゃうの結構多いんだぜ」

「……ここ、どこ……」

 ヒイロがまだわけがわからずに辺りをきょろきょろと見回した。

「あんたが埋もれてたとこの山にある小さな村だよ。ちょっとだけ炭坑があってね」

「……」

「何を急いでたのか知らないけど、あんな土砂降りの日に山を越えようなんて、全く馬鹿以外の何者でもないよ」

「……! そうだ!」

 ヒイロが手をぽんと打つ。

「この山を越えたところの道路まで行きたかったんだよ。そうだ、そうだった!」

「馬鹿じゃない? こんな豪雨の日に山なんて越えられるはずがないじゃないか。どうせ体中傷だらけなんだからもう少し休んだら」

「土砂崩れからどのくらい時間が経ってる?」

「土砂崩れがおきたのは昨日。もう今はお昼、まだ雨はやんでないんだけどさ」

「そんなに経ってるの!」

「……何だよ」

 あわてるヒイロを白い目で子どもが見た。

「やばいよ、ね、ね、どうしても越えられない?」

「無理だね」

 思ったより相当性格が悪い子どもにヒイロがふてくされる。

「今はみんな土砂を道路からどかすので忙しいんだ。そんな中で外に出られるわけがないだろ? 少しは考えろよ、僕より大人のくせに」

「……むぅぅ」

 さらに追い打ちをかけられて押しつぶされるヒイロ。

 その時外で叫ぶ声が聞こえた。

「おーーーい! 誰か、来てくれ! キルケ! いるんだろ!」

 ドアの向こうで声がする。

「ど、どうしたんだよ!」

 あわててヒイロの傍にいた子どもが出ていった。

 ヒイロはぽかんとしてベッドの上で座ったままだ。

 数人が走って出ていく音がして、村は静かになった。

 窓の外を見ると、まだまだ雨が降り続いていた。

 

 

「後ろからくっついてくるのがいるぞ」

 アレックスが、一言。

 車の中で一晩過ごし、いい加減疲れたカークは運転をクリスと交代していた。

 クリスが、ちら、とバックミラーを見る。

 確かに後ろから二台、三台と車がついてくる。

「どうする? どうやらみんな軍隊みたいだぜ。スミス大佐までいやがる」

 アレックスは続けて言った。

 ミスティが後部座席から後ろを振り返る。

 雨は止む気配もない。

「やり合って勝てる自信があるか?」

 アレックスの問いに、ミスティとクリスが首を振った。

 カークは疲れたのか、目をつぶっている。

「山に入ってから何とかするか。……勝てないとは思うけど」

 クリスが言った。

「アレックスは、なんか……案はないの?」

 いつもよりミスティは弱気だった。この豪雨、そして後ろから来る軍の精鋭部隊。絶体絶命とはまさにこの事だと思った。

「……まあ、九割の確率で勝つのは無理だろうな。しかも、何の奇策も思い浮かばない」

 ミスティが肩を落とす。

「大丈夫、お前らを死なせはしないさ」

 アレックスが力強くそう言った。

 

 

 

 黒いデスクを前にしてケンはガチャンと受話器を置いた。

 怒りのために眉間にしわがよっている。

「……」

 ケンは無言で椅子から立ち上がり、窓の方へと歩み寄った。

 雨は依然としてやむ気配すらない。

 しばらくその雨の一つ一つを見つめていたケンは、突然はっとしてまたデスクの受話器を取った。内線ボタンを押して相手が出るのを待つ。

「はい」

 男の声がした。

「……ケン・イケガミだ。あいつは……ロジャーはどうしている? 今、何処で何をしているかわかるか?」

「研究室にて、ウイルスの欠陥を修復しています」

「すぐに研究室から連れ出せ!」

「は?」

「いいから早くするんだ!」

「はい、わかりました」

 ケンは受話器を置いて一息ついた。

 かすかに右手が震えている。

「一体あいつは、どこまで俺の邪魔をするんだ……」

 ケンはそう呟いて唇をかみしめた。

 しばらくそうした姿勢のまま椅子に座っていると扉を叩く音が聞こえた。

「ロジャー・レイモンドを連れてきました」

 その声と共に三人の男に押さえ込まれるようにしてロジャーが入ってきた。

 ケンは何か言いたげなロジャーを一瞥すると、一人の男にこう告げた。

「君は確か研究所の人間だったね。さがってくれるか」

「はい、わかりました」

 ケンの命令は絶対と大統領から命令が下っているのか、男は一礼して部屋を出ていった。それからケンはもう一度ロジャーを見た。

「何か言いたそうだね。言ってごらん?」

「……いきなり、何なんだよ! 僕はウイルスの欠陥を発見して、それで……」

「ご苦労様。そんなにあのウイルスに愛着がわいた? ……そうそう、あの日本人を逃がすのに加勢したのも君だったみたいだね。本当にご苦労様だよ。おかげであいつは捜索隊を出しても見つからない。この雨じゃ、どっかで土砂崩れに巻き込まれてもしかたないよね」

 ケンは口の端をゆがめて笑った。

「……だから、彼はサンプルになんかなれない」

 ロジャーがそう言うと、横の男が思いきりロジャーを殴った。

 ケンは嫌な笑いを浮かべながらもういい、というようにその男に目で合図した。

「そんなことはもうどうだっていいよ。いい事を思いついたんだ。ここから東に、山間にある街があるだろう。そこにウイルスを放ってあげようか、って」

「!」

 ロジャーが目を大きくした。

「……だ、だってまだ、ウイルスは完成して……」

「欠陥があるかどうか実際に使って試してみればいいだろ。違う? しかも街全体にウイルスをばらまけばおまえの作った少量の薬じゃ間に合わない」

「……」

 絶望の色を濃くするロジャーをおもしろそうに見ながらケンは言った。

 全部こいつには読まれてる。ロジャーは背筋が寒くなるのを感じた。

「楽しみじゃないの? 実際に実験してみるのが。科学者ってそういうものだと思ってたんだけど。それとも今頃になって後悔した? こんな悪魔みたいなことするんじゃなかったって。でもそれをやったのはお前なんだよ。お前がやったんだ。……あ、そうだ、お前の父親がそうしたみたいにお前も自殺してみるか? それがいいならそうしたったいいんだぜ」

 ケンはそう言ってまた笑った。

「……」

 ロジャーはうつむいた。

 ケンがつかつかと足音をたてて近づく。バキ、と大きな音がしてロジャーの唇に血がにじんだ。

「お前達のせいで俺の計画が大失敗なんだ。どうしてくれる? あともう少しで完璧だったのに…… 俺は自由になれたのに…… お前達のせいで! お前達のせいで!」

 ケンは続けざまにロジャーを殴った。ロジャーは両腕を後ろの二人に固定されて身動きすら取れない。ロジャーはぼんやりと、ケンの言っている『お前達』というのは自分と、この間の優しいケンのことを指しているんだろうなと考えていた。

 ケンはそうして、何度も何度も気が済むまでロジャーを殴り続けた。

 やがてケンの息も切れて、気が済んだとき、ケンは異様な笑みを浮かべてロジャーに語りかけた。

「そうだ、明日あの街にウイルスをばらまきに行こう。それまで生かしておいてやるよ。そしてお前は俺と一緒に防ウイルススーツを着て遠巻きに見ていればいい。映画よりも恐ろしい光景を思い描いて苦しむがいい。自殺するのはそれからでも遅くない。自分の造ったものの行く末をきちんと見ないうちには死ねないよな」

 ロジャーは腫れて内出血した顔で、ケンを見た。

 この人は本気で言っている。今度こそ本当にあのウイルスが使われてしまうんだ。

 ロジャーは恐怖のあまり口の中が乾いているのがわかった。

「じゃあ、そういうことにしよう。こいつをどこかに縛り付けておいてくれないか。アンドリュー・レイモンドみたいに自殺されないようにな」

 二人の男は力の抜けたロジャーの体を半ば引きずるようにして部屋を出ていった。

 

 

 

 ミスティ達は雨の中ぬかるんだ山道を車で進んでいた。相変わらず何も言わずに後ろの車は同じスピードでついてくる。最初にミスティがしびれをきらしてアレックスに聞いた。

「ねえ、どうするんだよ? これじゃあどうやっても捕まるんじゃない?」

「……」

 アレックスは腕を組んだまま前方を見つめていた。

 雨は容赦なく降り続く。

 クリスは黙って山道に沿って運転はしているが、内心落ちつかなさそうにハンドルを持つ指を動かしたりしていた。カークは相変わらず目を閉じたままだ。

「俺が出ていけば、何とかなるかもしれない」

 ぼそ、とアレックスが言った。

 その声に反応してミスティがアレックスを見る。

「な、何言ってるんだよ! そんなの殺されるに決まってるじゃないか!」

「大佐がいるなら、少し話が出来るかもしれない。俺が今メーソンにいることを話して上手せるならお前らを逃がすことくらいならできる」

「な、何それ! ちょっと、クリスも何か言ってよ!」

 クリスはバックミラーでちら、とミスティを見たが、何も言わなかった。

 アレックスは淡々と続ける。

「でもまだ殺されると決まったわけじゃない。大佐だって国の命令に従って全人類を見殺しにはしたくないはずさ」

「……あいつを甘く見るなよ」

 クリスが久々に口を開いた。アレックスが「何でそう言える?」と興味深げに身を乗り出した。

「この間会ったのさ。あいつはちっとも変わってない……数年前と、全然。あいつの本心がどうであろうと関係ないのさ。あいつは、ただ命令に従うだけの根っからの軍人なんだよ」

「……そうだったな。それで、俺も殺したんだっけ。こんなに長い間経ったら、ちっとは変わってるかと思ってたが」

「変わらないさ」

 クリスはそう言って口を閉じて、運転を続けた。

 ホワイトハウス。

 歴代大統領が住む家をこう呼ぶ。

 初代大統領ワシントン。彼もボヘミアン・クラブ──メーソンの社員であった。

 そして現大統領。

 彼もまたワシントンと同様にメーソンの一員だった。

 今、彼はゆったりとした椅子に座り、同志からの報告を微笑みながら聞いていた。

「──そうか。明日、Kが陽の目を見るか。私も少しは力になれたようだな」

「いいえ、とんでもございません。大統領閣下のお力ぞえがなければ、今頃我々は様々な障害に頭を悩ませていたことでしょう」

「それで、その事は上の評議会にも伝わっているのだな?」

「はい、もちろんでございます。明日は極秘に上層部の方々もいらっしゃるそうです。大統領閣下はいかがなさいますか?」

「もちろん、私も行くつもりだ」

「そうですか、ではそのようにお伝えしておきます」

 そうして、男は一礼して部屋を出ていった。

 大統領は葉巻を口にくわえ、火をつけた。

 満足感にでもひたっているのだろう。

 煙を見ながら、大統領は独り言のように呟いた。

「これで聖書の預言は真実になった……」

 

 

 ヒイロは誰も戻ってくる気配がないのでベッドを抜け出した。

 あちこち多少怪我はしているようだが大きな傷はない。

 木でできた、ログハウスのようなしゃれた作りの小さな家だった。

 玄関まで行き、ドアを開けるとバケツをひっくり返したような雨が降り続いている。

 村は小さな集落のようだった。人の気配が全くしない。

──そういえば土砂をどかしてるとか言ってたっけ。

 さっきの子どもの言葉を思い出してヒイロは納得した。

 そうして部屋に戻る。

 一人でいると様々なことが頭に浮かんだ。

 LAで会った一也のこと。留学をするとかいう由美のこと。日本できっと帰りを待っているであろう父と母のこと。日本の友達のこと。

 まるでここにいることが嘘のようにヒイロの頭の中は日本のことでいっぱいだった。

──ミスティに、ダグおじさんの家にいるとき、ロジャーと日本においでよ、って言ったよな。

 ヒイロはそんなことを思い出していた。

──ロジャー、本当に助かるのかなあ。ミスティは、助けるって言ってたけど。でももし助かって、全てが上手くいって、そしたら、みんな普通の生活をして、それで一度くらいは日本に来れるよな。……頭の固い兄貴にもこんな映画みたいな話とかしてやりたいし。由美だってクリスくらいかっこいい外人連れてきたら喜ぶだろうし。

 とりとめもなくヒイロはぼんやりとみんなを日本に連れていった時のことを考えていた。

──そういや、カークって、やっぱミスティのことが好きなんだよな。全部終わったら、上手くいくのかな。あ、でもミスティってアレックスが好きなんだっけ。まあ、それは何か無理そうな気もするけど……でもやっぱどっちにしろ、ミスティには幸せになってもらいたいな、普通の女の子みたいに。

 『普通の女の子みたいに』と思ってしまった自分にヒイロは思わず笑った。

──そうだ、ロジャーだって大学行けばすごいことになるな。あんな天才めったにお目にかかれないし。

 そこまで考えて、ふいにヒイロは思考が止まった。

 ケンは。

 ケンはどうなるんだろう?

 もう一度、いや彼は彼のままでいられるのだろうか?

 また大学に戻って来るんだろうか?

 ヒイロは大きくため息をついた。

 たとえ全てが上手くいっても、彼の中の誰か、あのメーソンが救世主だとか言っている悪魔がいなくならない限り、ケンは助からない。あの悪魔をこの世から消すことは、すなわちケンを消すことにもつながるわけで。

──全てが上手くいったら?

 ヒイロは唇を噛んだ。

 奇跡が起こらない限り、本当のハッピーエンドはあり得ない。

 本物の神様が、ケンを助けてくれない限り。

──……一体どうしたら……

 そうしていつの間にかヒイロは気を失っていた。

 

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