第一章

 
 
 白い光の中でゆっくりと目を開ける。同時にきつい薬品の匂いが鼻につく。
──一体……?
 意識がはっきりしない。ただ自分がいつもと違う状況下におかれていることだけがわかる。
自分は今どこにいるのか。
 まわりには白衣に身を包んだ医者らしき人間が何人もいた。
 自分は一体何をされようとしているのか。
 医者らしい人物の一人が注射器を取った。
 周りの医者も黙ってうなずく。
 完全に消毒された手袋をつけた手が腕に触れる。
──これは一体何なんだ?
 鈍い痛みが脳に伝わる。注射器の中の液体が体内に吸い込まれていく。
 それを見ているうちにだんだんと意識が遠のいていった。
──『あれ』とは何だ?
 その言葉だけが混沌とした意識の中でゆっくりとまわり続けた。
「これでこの研究が成功したか否かがわかる。これが上手く行けばお前はもう自由の身だ」
 一人の研究員が言った。
 そのそばで、うつろな瞳をした金髪の少年がうつむいていた。
 
 
 
 ──ここは何処だ?
 ゆっくりと目を開ける。白い天井が目に入った。
 ヒイロはそっと身を起こしてまわりの様子を窺った。
 どう考えても自分の家ではない。
 ヒイロは今朝のことを思いだした。
 
「あれ、クリスはもういないのか……」
 ヒイロは部屋をぐるっと見回してベッドから降りた。
 それからキッチンに行ってパンを取り出し、トースターで焼く。
──『あれ』って何なんだ?
 少し焦げ目のついたパンをくわえながらヒイロはテレビをつけた。
 朝の天気予報がやっている。
──今日は朝から昼にかけていいお天気が続きますが、夕方頃からひどい雨になるでしょう。
「雨、か……」
 ヒイロはコップについだ牛乳を飲み干した。
 玄関のチャイムが鳴る。
「はい」
 ヒイロは昨日の今日なので少し警戒した声を出した。
「あ、俺なんだけどさ。ちょっと忘れ物しちゃって」
 クリスのようだった。
「忘れ物?」
「ああ、ここに連れてこられたときに着てた服の中に銃をね」
「……」
 ヒイロはドアの穴からそっと外を覗いた。
 ブロンドの頭が見えた。
 なんのためらいもなくドアの鍵をはずして開ける。
 その瞬間、鳩尾に強烈な一撃が入った。
 顔をしかめながらヒイロが男の顔を見る。
 クリスではなかった。
──しまった。
 思ったときにはもう遅かった。
 後頭部にさらに強い手刀が入り、ヒイロは意識を失った。
 
 
 
──てことは、ここはどっかの……。
 さらにヒイロは自分がどこかの手術室のような所にいたのを思いだした。
──一体……?
 部屋の中には檻に入ったマウスやらうさぎなど、明らかに実験用として使われるような動物
が何匹かいた。
──何かの実験台にされた?
 ヒイロは自分の額に手を当てた。少し熱があるようだ。
──『あれ』と関係があるのか?
 ヒイロはベッドからおりてドアの方に向かった。
 ドアは完全にロックされていて、さらに向こうに二重扉が見えた。
 その向こうには殺菌されたウイルス治療専用の服が置いてある。
──ウイルス? 『あれ』はウイルスなのか?
 
 『弟は人殺しのための道具をつくらされてる』
 
 ミスティの言葉がよみがえった。
──ミスティが、ミスティのお父さんは特殊部隊がどうのこうのって言ってたような……。っ
てことは、軍隊? 兵器? 何だ? ウイルス兵器?この時代に? だってクリスもミスティ
も、何だかんだいって結構軍隊とかFBIだとか言ってるしなぁ……。『あれ』は研究されて
いるモノらしいし。一番高い確率は、やっぱウイルスかなぁ……。
 ヒイロはまたベッドに戻って座った。少し寒気がする。
──俺がその実験台にされた? じゃああそこにいたのはその研究員か? あの中にミスティ
の弟がいたっていうのか?
 ヒイロは目の前にいるマウスに目を向けた。
 体の小さいマウスにもまだ何の影響も出ていない。
 きっと今は潜伏期間なのだろう。
 一体どういうウイルスなのか?
 空気感染かそれとも……。
 ヒイロの脳裏に、ある「ウイルス兵器」の名前が思い浮かんだ。
      『SAND GLASS』
 90年代後半に核を使用しようとしたアジアの一部の国を抑えるために起きた小さな戦争。
 核を保有していながらそれがただの「小さな戦争」で終わってしまった事に様々な憶測が飛
び交った。
 さらに、それは軍関連の人間から奇妙な病気が始まったことで、噂はふくれあがっていった
。
 そして、その噂の中の一つに、「ウイルス兵器」というのがあった。
 当時アメリカには知能指数200をとうに超える天才生物学者がいたらしく、その生物学者
が国家の命によって密かにつくっていたのがその『SAND GLASS』だったという。そ
してそれがその「小さな戦争」で実験的に使われたらしい。
 ヒイロはそのことを考えた。
──もし、そのウイルスの研究が続けられていたとして……何故今それが必要なんだ? この
国の目的は一体……。
 ヒイロはぶるっと身震いをした。
──このウイルスに対する治療薬は開発されているのか? もしされてないなら、俺はこのま
ま……。
 その先を考えるのをやめて、今はただ自分の自然治癒能力を信じようと思ってヒイロはベッ
ドに横たわった。外は曇ってきているようだった。
──ああ、夕方から雨だっけ。クリスの奴、傘持ってるのかな。
 そうして、ヒイロは目を閉じた。
 

 

 ヒイロの家にあった一枚の紙を見た後、クリス達はカークをダウンタウンに残し、高速道路にのった。
「誘拐と同じようなものか……」
 ミスティが呟いた。
「わからない。俺を捕まえるのも目的だと思うけど、……ヒイロに何の危害も加えられてないとは、思えないな」
「……」
「お呼ばれしてるのは俺だけなんだからお前は来なくてもいいんだぜ。色々危ないし」
 ミスティが運転中のクリスに銃を突きつけた。
「ふざけるな。研究所となればロジャーのいる可能性だってあるんだ。それに、あの関係のないただの日本人を放って置くわけにいかない。わかったら二度とあたしに今みたいなことをいうな。次は殺す」
「はいはい」
 クリスは何だかムキになっているミスティを見て少し笑った。それがさらにミスティの気に障ったらしく、彼女はクリスと反対側の窓の方に顔を向けてしまった。
「弾は?」
「そこに入ってるのと、後は一ダース余分にあたしが持ってる。足りそう?」
「何とかな」
 ミスティはポケットから一ダース束になっている弾を取り出して二つに分け、片方をクリスの膝の上にのせた。
「持っておきな。二人一緒にいられるとは思えない」
「ああ」
 暗くなってきた空から、ぽつぽつと雨が降り始めた。
 
   ヒイロの部屋のドアが開いた。
 宇宙服のような対空気感染ウイルス用の服を身にまとった男が入ってきた。
 男はヒイロのそばまで来ると、こう言った。
「試験的に薬を作ってみたんだ。でも、実験段階だから試した事もないし……副作用が起こる
かもしれないんだけど」
 ヒイロは不思議そうに男の顔を見た。
 大人と言うにはまだ若すぎた。
 そして、ミスティと同じ瞳。
「ミスティの弟──ロジャー!?」
 ヒイロは叫んでいた。
「……ミスティを知っているの!?」
 とこちらも叫ぶ。
「お前のことすごい捜してるみたいだった」
「ミスティは今元気なの?」
 二人で同時に別々のことを喋り、口を閉じてから二人は笑った。
「よかった。あいつらミスティにまで手を出してるんじゃないかと思って心配だったんだよ」
 ロジャーはそう言って笑った。
「これは……ウイルス? ウイルス兵器なの?」
 ヒイロの問いにロジャーが黙ってうなずく。
「『SAND GLASS』?」
「違う。あれは増殖のさせかたがまずかったんだ。ある季節になれば死滅してしまう可能性も
ある。それにあれは、良く知らないけど……何だかすごい人によって全部燃やされてしまった
らしいから、もうない」
 ヒイロは自分の体内に潜伏しているウイルスの正体が分からなくなり、不安になった。
「じゃ、一体これは……」
「僕の父が死ぬ前に研究をしていたものだよ。まだ名前がないんだ。コードネームは『K』。『SAND GLASS』の知識を元につくったのがこれで。父はこれを作って、その恐ろしさの余り自殺してしまったんだ」
 ヒイロは黙ってロジャーの顔を見た。そして、はっとしたようにばっと上半身を起こした。
「ここって見張られたりとかしてるんじゃないの? カメラとか色々……」
「大丈夫だよ。ここに来る前に研究所全体の主電源をぬいてきたから。もう一度電気が戻るま
で大分かかる。この間大雨の時にそうなって大変だったんだ」
 ロジャーはにこにこしながら言った。
──さすがはあのミスティの弟……。ただもんじゃない……。
 ヒイロは口には出さなかったが心底驚いていた。
「あ、だから早く薬を。どうする? 副作用とかあっても我慢できる? ──多分、体内にい
るウイルスの増殖に関するDNAを壊すことくらいならできると思うから、人にはうつらなく
なると思うけど……」
「けど?」
「あのね、このウイルスは体内に入って一定期間を過ぎると人間のDNAに働きかけてガン細
胞みたいなのをつくるんだよ。免疫系も全部壊されちゃうし。だからそうなってからじゃ誰も
助けられない。今の状態ではね」
 ヒイロの背中に冷たい汗が流れた。
「それって……。絶対に死ぬってこと?」
「大丈夫、まだ潜伏期間だと思うから、これを打てば平気」
 ロジャーはポケットから注射器を取り出す。
 ヒイロの腕を取って注射器をしげしげと眺めているロジャーはどうやらまだ注射器を扱った
ことがないようだった。
「俺、やるからいいよ」
「え。でも」
「大丈夫、慣れてる」
「麻薬でもやってんの」
「違うよ。医学生なの」
 ヒイロはロジャーの手から注射器を取ると、自分の左腕に刺そうとして止めた。
「静脈注射でいいんだよね」
 ヒイロに聞かれても、ロジャーは何のことだというようにぽかんとしている。
「だから、ここに刺すのでいいんだよねって聞いてるんだよ」
「わかんない」
「は〜!?」
 ヒイロの顔が歪む。
「僕がわかるのは、それがどう体内で作用するかだけ。僕は医学的な知識もないし、それに自
分が今やってる研究のこと以外はほとんど何もわからないんだ」
「何で」
「だって学校、小学校をちょっとしか行ったことないから」
 再びヒイロの顔が歪む。
「ちょっと待て、お前今幾つだ?」
「16歳」
「え〜!? 16でこのウイルスの研究をしてるって? 短時間で薬を作るだって? お前ど
ういう頭してるんだよ」
「よくわかんないよ。いわれたことをやってるだけだから。薬のことは内緒でずっとウイルス
と一緒に研究してたんだ。それより、早く薬打たないと、大変なことになっちゃうかもしれな
いよ」
 ヒイロは何となく合点のいかない顔で、それでも打たないと死んでしまうかもしれないので
黙って静脈注射をした。そうした理由は単にそれが一般的であるからと、それがやりやすいか
ら、というだけである。
「あ、それと」
 ロジャーがつけ加えた。
「その薬、ウイルスのことしか考えないで作ってるから、もし体に異変が起きた場合は、ちゃ
んと病院いった方がいいよ」
「お前な……」
 俺を殺す気か、と言いかけてヒイロはやめた。これがどのような薬にしろ、ロジャーが自分
を助けるつもりで作ってくれたことに変わりはない。
「そろそろいかなきゃ。いないことがばれたら大変なことになるからね」
 そう言ってロジャーはカードキーを持ってドアの方に歩いていった。
「そのうち、ちゃんとウイルスが体内に定着してからでもやっつけられるような薬を作るから
。できたら、どうにかしてあげる。それと、ミスティに会ったら、僕は大丈夫って言っておいて。このドアは主電源とは別に電源があるから、これで開けて。外にかかってる防ウイルススーツを着て出れば、誰も君だってわからないから」
 ロジャーはヒイロの部屋のドアを開けると、内側からのカードキーをヒイロに投げてよこし
て、部屋を出ていった
──変な奴。
 ヒイロはふっと笑ってから、ロジャーの起こした停電が終わるまでに逃げ出そうとしてベッ
ドから降りた。
 
 

 

「さて、あそこが研究所らしいけど」
 クリスがミスティの顔を見た。
 流れてくる雨を払いのけているワイパー越しに白い建物が見えた。暗い雲のせいか、明かり
一つついていない建物は不気味に見えた。
「何で電気がついてない?」
 ミスティが研究所を指さして言った。
「罠?」
「──いや、まさか。罠ならあんなにわかりやすくしないさ。おおかた単なる停電か何かだろ
う。ここで二手に分かれるか? それとも仲良く一緒に行くか?」
 ミスティがクリスの目を見た。
「一人じゃ心細いって?」
「まさか。俺が? お前が一人じゃ危ないんじゃないかって言ってるんだ。どうする?」
「馬鹿にするな」
 ミスティはそう言うと、車のドアを開けた。外は雨が激しく降っている。
「お前と二人で行くなんて捕まりに行くようなもんだ。あたしは一人で別の方からロジャーを
捜す」
「おっけー。じゃ、しっかりがんばれよ」
 クリスの笑顔に片手をあげると、ミスティは土砂降りの中に消えていった。クリスがズボン
のポケットに手を当てる。
「──銃が役に立てばいいけどな……」
 そう言ってハンドルを握り直し、研究所の私道にのりこんだ。
 雨の中でも警備は続いているらしく、停電で明かりが消えている中にも何人か軍の人間がい
た。研究所を取り囲んでいる塀には乗り越えられないように高圧電線がひいてある。停電のう
ちにミスティが潜り込むことが出来れば、そう思っているうちに研究所に明かりが戻った。
 ふと気がつくと、車の前は警備の者によってふさがれていた。
 そのうちの一人にドアを開けられる。
「クリス・フォードだな」
 クリスは黙ってうなずくと車を降りた。
 と同時に背中に銃を突きつけられる。
「歩け」
「久しぶりに軍に帰ってきたってのに手荒いお出迎えだな」
 クリスは苦笑した。
  そのまま研究所の中に連れて行かれ、中の一間に通された。
 部屋では壁際にきちんと整列した軍人とは別に、一人の男がソファーに座っていた。
「離してやれ」
 ソファーに座っていたきつい顔をした男が言うと、クリスに銃を押しつけていた連中はすぐ
にクリスを解放して壁に整列した。
「久しぶりだな、クリス・フォード。お前を捜すには苦労したよ。何しろ、FBIまで敵に回したそうじゃないか。お前らしくないな」
 男は立ち上がるとにっこりと笑った。6フィート以上ある身体に軍服をまとっているその男
は見ただけで大物だとわかる。
 クリスもそれに応えるように笑ったが、目は笑っていなかった。
「俺を捕まえるための餌にした日本人は何処にいる? 俺が来ればやつは解放されるんだろ、
ギルバート?」
「スミス大佐と呼べ、失礼だぞ!」
 軍人の一人がそう言ったが、
「かまわん。こいつは昔からそうだ」
 そう言って大佐はまた笑った。
「立ち話はなんだ、こっちに座って話そう」
「……やっぱりそうか。お前らはいつも話が違う。どうせヒイロは解放できな
いって事だろ?」
「貴様無礼にも程があるぞ!」
 また軍人の一人が声を荒げた。
 クリスはそいつに見向きもせずにどっかとソファーに座って足を組んだ。大佐も苦笑して向
かい側に座る。
「まぁ、結果を急ぐな。お茶でも飲みながらゆっくり話そう。お前が今、一体何をしているの
かも、気になるしな。──お前達、すまないが席を外してくれ。それから外の警備をもっと厚
くするように」
 大佐の声に軍人はどやどやと部屋を出ていった。
 クリスが目の前のカップに手を伸ばした。
「──冷めているだろう。誰かにかわりを持ってこさせよう」
 大佐はそう言って立ち上がろうとした。
「いや、いい。あんたはいつまで過保護なつもりなんだよ? もうあんたとは何の縁もないっ
てのに」
「先に裏切ったのはお前だったな」
「裏切る?──人聞きの悪い。俺は俺が正しいと思うことをしているだけだ」
「……そして、私は国のために自分の仕事をしているだけだ」
 紅茶を飲みながらクリスは大佐の目を見た。
「最初はあんたの言うとおりにしようと思ったよ。でも、俺には向いていなかったみたい
だな」
「お前の才能を見抜いたのはこの私だ」
「嘘つけ」
 クリスは紅茶を飲みきってカップをテーブルに戻した。 
 静かな沈黙が流れる。
「まさか、これに毒なんて入ってないよな」
 クリスの言葉に、大佐の口元がほころぶ。
「いい勘だ。しかし、はずれだ。でも、今のお前の状況なら、いつ殺されてもおかしくないと
いうことを覚えておけ。お前は国家を敵に回している。蟻を踏みつぶすように簡単に殺されて
しまうということだ。あの、アレックス・タイラーのようにな」
 クリスの目が鋭くなった。
「アレックスは、犬死にしたわけじゃない」
 半ば怒鳴るようにそう言ってクリスは顔を伏せた。
「そうか。……お前にとってはな」
 大佐は皮肉っぽくそう言うと、話題を変えた。
「その、日本人の青年のことだが。──彼は特殊な病気にかかってしまってね、外には出せな
いんだ」
 クリスが顔を上げた。
「また、それか? 実験台にするんだったらどうして俺にしない? どうせ殺すんだろ? 
──なんで関係のない一般人をこの件に絡ませるんだ。俺は、あんたらの頭の中がわ
かんないね」
「──これは、上からの命令だ」
「え?」
「山根弘也をKウイルスの実験台にしろ、とな。私にはよくわからないことだが、イケガミ家
を爆破したお前を、彼が助けたことが原因なんじゃないのか?」
「──そんな馬鹿な……」
 クリスはそう言って頭を抱えた。
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