六章

美利河達が蘇芳に着いた二日後、椹は全員を会議室に集めた。
「まず最初に、ここにいる皆さんにお礼を申し上げたいと思います。作戦は全て成功、こちら側の軍勢は以前の倍以上にも膨れ上がりました。目指すは京華の本拠地のみです」
椹がそう言って地図の上を叩くと、全員が息をのんだ。
「将軍の金蘭を失った京華は散り散りになり、集められるだけの軍勢を集めて我々を迎え撃つとしても以前の比ではありません。ただ一つ気がかりなのが蔚木の策……」
「ごめんな、逃がしちゃって」
矢葺が言うと椹は首を振った。
「いいえ、矢葺様は良くやってくださいました。……しかし蔚木は恐ろしく頭が切れる。こちらが単に向かっていっただけでは奴の策にかかってこちら側に思わぬ犠牲を出す危険があります」
「数で蔚木の策を上回ることはできないのか」
瀧が聞いた。
「わかりません。向こうが一体どんな手でくるか、私には見当もつきません。しかし京華にも弱点はあります。そこを上手くつけば、京華自身が崩壊します」
「……で、それがどこだって?」
もったいぶるなよ、と言いたげに頬杖をつきながら矢葺が聞いた。
「叶です。京華は叶を軸にあれだけの勢力を広げました。一部では反乱分子もあるものの、叶に対する恐怖のために実力行使ができないということも聞きます。京華の叶と阿砂耶を押さえれば……京華はなしくずしに崩壊するでしょう」
「なるほどな。要するに俺達に単独で叶の城に忍びこめってことだろう」
「そういうことですね」
椹は眼鏡を押し上げた。
「待てよ、まさかまた美利河にやらせるってわけじゃ……」
「私にやらせてください」
美利河は矢葺を遮って自ら申し出た。
「……かなり危険な賭けになります」
「わかっています。でもやらせてください」
「あなたがそうおっしゃって下さるなら、私はお願いするだけです」
椹はそう言って頭を下げた。
「俺もついていこう」
瀧が言うと、矢葺も「俺もいく」と言った。するとそれまで黙っていた芹が口を開いた。
「矢葺。今度ばかりはやめておけ」
「な、何でだよ」
芹は矢葺を見つめて真剣な顔で言った。
「いいか。この戦い、我々は数え切れない犠牲を出した。私は戦いが終わればその責任を取るつもりでいる。その時、お前にもしもの事があっては困る」
矢葺は目を丸くした。
「だから、今度はここに残れ」
「何で今になって……」
「私はお前を心配しているんだ」
芹は有無を言わせぬ眼差しで矢葺を見つめる。矢葺は口を結んで下を向いた。
「それでは、美利河殿。篠青の方から京華へ抜ける峠の手前まではそれなりの数の護衛をつけましょう。それから先は少人数の方が動きやすいでしょうから。瀧殿、美利河殿をよろしくお願いします」
椹が言うと瀧は黙って頷いた。
「では薊、全体の進軍についての説明をします。陸路ですが、鬱金の方は積もった雪がとけはじめて雪崩が起きるおそれがありますし、山道も多いので大軍を動かすのには向きません。蔚木もそれを十分承知でしょうが、我々は篠青の方から回るしかありません」
「蔚木の策に足下を救われなければいいが」
「ええ……鬱金の方からは、山道に慣れている鬱金の軍を向かわせます。海の方からは回り込む形で竜胆の軍を向かわせます。あとは運を天にまかせるしかありませんね」
椹は芹に答えて言った。
「征殿には斉夏の一軍の指揮をお願いします。寒菊殿は各国へできるだけ兵を集められるよう知らせを届けて下さい」
征と寒菊は自分の名を呼ばれて身が引き締まる思いがした。
「矢葺様は、ここで女王と共にお待ち下さい。城で留守を守るのも大切な事です」
矢葺は下を向いたまま答えなかった。
 
 
出発の日の前日、寒菊は美利河の部屋にいた。
「決戦は明日ね」
「ええ」
「京華は……負けるのかしら」
寒菊は呟いて窓の方から美利河の方へ向き直った。
「叶が何故強運だとか、悪霊だとかって言われてるか知ってる?」
美利河は長椅子に座って老婆からもらった剣を眺めていたが、寒菊の視線に気がついて顔を上げた。
「……あたしの一座、前に京華でとどまっていた時期があるのよ。瀧も一緒に。そのときは京華おかかえの劇団のひとつだったわ」
「……」
「その頃丁度京華の前の国王が亡くなったのよ」
寒菊の真剣な声に美利河は剣の鞘を脇にどけて話に聞き入った。
「京華の前の国王には六人の王子がいたの。それぞれの王子は母親が違って、身分も違う。王位継承権のあった一番上の王子は国王が在位中に亡くなり、王位は次の王子のものになるはずだった。けれども、前の国王が亡くなったとき、王位につくはずだった王子が何故か何者かに暗殺されたの。続いて他の三人の王子も様々な方法で様々な時に亡くなったわ。叶は一番位の低い妃の子だったから王位なんて関係無かったはずなんだけど、上位の王子が全て亡くなったから王になれた。これが叶が強運だって言われる理由なのよね」
寒菊は喋ってから美利河の向かい側の長椅子に座った。
「でも、それは叶が暗殺をしたからじゃないの?」
美利河が真剣な顔で言う。寒菊は長い黒い髪を掻き上げるとこう答えた。
「もっぱらそういう噂だったわ。でもみんな叶が恐ろしくて何も言えなかった。たかだか十代前半の少年だったのに。叶には悪霊がついてるって、みんな本気で信じていたくらいよ。でも彼は自分についてるのが悪霊ではなく神であると証明した。美利河ちゃんの村から美利河ちゃんのお兄さんを連れてきてね」
「……」
美利河は口をつぐんだ。
「でもあたしが不思議なのは、あの人はどうしてあんな風なのかってことよ。ただ単に天下を手に入れたいからとか、そんな野望で、あんなに若いのに短期間で国を大きくできるものだと思う? ものすごく、あの人は実は追い詰められているんじゃないかな、ってあたしは思うの」
寒菊の言葉に美利河は顔を上げる。
「そう言えば……兄さんもそんなことを言っていた……」
美利河が呟くと寒菊は着物の襟をなおしながらこう言った。
「だからね、あたしが言いたいのは、美利河ちゃんはいろんな意味でものすごく叶の事憎んでるみたいだけど、もう少し違う方向から彼が見られないかしら、ってこと。……でないと美利河ちゃんはいつまでもその剣を封印してなきゃいけないわ。それってきっと、最後の戦いには必要なものになるんでしょう?」
寒菊はそう言って最後には美利河の剣を見た。美利河も剣を見つめながら老婆と、阿砂耶と、そして鵡斗の言葉を思い出していた。
――今ここで、私がこの剣を手にしているのは何かの導きなんだ。
 それでも、叶のことをどう考えていいのか、いまだに心は揺れ動くばかりだった。
 
 
蘇芳から五万の軍が京華へ向かって都を出た。寒菊が各地へ送った知らせによって周りの小国から義勇軍が加勢する。
美利河達は軍よりも早く竜胆を通って篠青に出た。篠青の広い農地を横目に走り続けると、約二週間ほどで篠青と京華の国境あたりに辿り着くことができる。
護衛の兵士は馬から降りると、兜を取って頭を下げた。
「我々はここまでで失礼します。ご健闘を」
美利河は頷いて頭を下げた十人の兵士を見たが、何故か一つだけ見覚えのあるだんご頭に気づいた。
「……?」
十人が顔を上げると、だんご頭がにっと笑う。
「よう。俺はここからもついていくぜ」
「矢葺様!!!」
他の九人は大声をあげた。それから互いに「何で気づかなかったんだ」ともめあいだした。
「あんな城でゆっくり待ってられるわけないだろ。こんなときで無けりゃ経験できないことだってあるわけだしな」
「矢葺様! とにかく我々と共に今すぐお帰りを」
「嫌だって。俺は行くんだよ。姉貴にだって手紙書いて置いてきたし」
「そんな事おっしゃって!」
混乱する護衛の胸ぐらを掴んで矢葺が言った。
「いいか、無理矢理にでも連れて帰ってみろ。自害してやるからな!」
「そ、そんな……」
困り果てる護衛を置いて、矢葺はまた馬にまたがった。
「よし、行こうぜ美利河」
「……我が儘もここまでくると何も言えないわね」
美利河は呆れたように言ったが、顔は笑っていた。瀧は何も言わずに京華の方へ進み出している。
「ほらさ、やっぱ俺がいないと色々大変だろ?」
「いたほうが大変だけど」
「そんな事言うなよ……て、瀧! 勝手に先行くなよ!」
美利河と矢葺は随分先へ行ってしまった瀧を追いかけ、後には向こうにのどかな田園風景が見える中で、困惑した護衛九人が残されていた。
 
 
先に京華との国境に辿り着いたのは征が率いる斉夏の一軍と、少数の篠青の軍だった。
国境には予想通り京華にできる限りの大軍が守りを固めていた。まずは現状の把握と、征は目を凝らす。
「ざっと五万てとこかな」
「そうだな」
横にいた征の知り合いが答えた。
「でもおかしいな。椹さんが言っていたのと違う。八万は絶対にいるはずだって言ってたんだけど」
「どこかに伏兵が潜んでいるかもしれない。他の軍がつくまで待機していた方がよさそうだな」
「うん……」
嫌な予感がした。
──こういう勘って当たっちゃうんだよな……。
そう思いつつ、征は目の前の京華の軍を凝視していた。
 
 
叶は座ったまま窓の外を見ていた。
闇に閉ざされた城を篝火が照らし、外は昼間のように明るくなっていた。
「……今度こそこの手で息の根を止めてやる……目障りな鼠が……」
叶が呟くと、風眞が答えた。
「蔚木の言う通り敵はまず叶様と阿砂耶様をおさえようとするでしょうね」
「……そうだな。でもこれだけ警備を厚くすればなかなか入ってこられないだろう。……そこの誰かが邪魔をしなければな」
叶はそう言って嫌みたっぷりに阿砂耶をねめつけた。阿砂耶は何も言わずに叶を見つめ返す。
「たとえ何かあっても、叶様は私がお守りします。ご安心下さい」
「お前に守られるくらいなら死んだ方がましだ」
叶は風眞に言い返すと、また窓の外を眺めた。
「……そろそろ国境には蘇芳の大軍が着いた頃か。蔚木の策が勝つかどうか。これで負ければ全てが終わりになる。つい最近まではこんな状態考えられもしなかったな」
「そうでございますね。でも我々京華が負けることはありませんよ」
風眞がそう言うと、叶は振り返った。
「ふざけるな。お前がそう言うのを聞くと吐き気がする」
風眞は悲しそうな顔で叶のやつれた顔を見つめた。そして気がついたようにこう聞いた。
「そういえばお薬はお飲みになりましたか。お顔の色が優れないようですが」
「……あんなものいたずらに苦しみを忘れさせるだけだ。そんなもの必要ない。苦しみこそこの僕にふさわしい」
風眞は何を言うことも出来ず、ただ下を向いて「失礼します」とだけ言って部屋を去った。
阿砂耶と二人だけになった暖炉の燃える暖かい部屋で、叶は風眞の出ていった方を見たまま阿砂耶に言った。
「……お前の可愛い妹のためにこざかしい手を使ってやらなくていいのか」
「……それは私を挑発しているつもりか?」
「そうだよ。自由に何でもするがいい。そして僕を苦しませてみろよ。今くらいだ。お前が僕に仕返しできるのは」
「仕返し、か……」
阿砂耶は誰にともなく呟いた。
――誰に、何のための復讐をせよというのだろう。それとも、仕返しがしたかったのは叶本人なのだろうか。
阿砂耶は宙を仰いだ。叶のしたかった復讐など、誰にあてつけたところできっとむなしさが募るだけだ。本当に彼の欲しかったものは、玉座でもなく、天下でもないはず。
「――叶、お前は自身の復讐ができたのか」
 がしゃん、と大きな音を立てて卓の瑠璃杯が床に落ちて割れた。
「見ればわかるだろう。お前があの女を逃がしてくれたせいで僕の計画は何もかも滅茶苦茶だ」
「――計画、とは天下統一のことか」
「……誰も手に入れられなかったものを手に入れて、全部壊してやるつもりだった」
 そう言って叶は半ば泣きそうな子供のような表情をする。
――そんなことをしても、お前の本当に欲しいものは戻ってこないだろうに。
わかっていても阿砂耶に叶を諌めることはできなかった。叶はそんな真実に耳を傾けようとはしない。この長い年月を通して、神の声と何度嘯いてみても無駄だった。昔から忠実に仕えてきている風眞の言葉ですら無理なのだから。
宙を見つめたままの阿砂耶の目が気に入らなくて叶は扉を指さして言った。
「さっさと行けよ。うまくいけばお前の可愛い妹が僕を殺す瞬間が見られるぞ」
半ば狂ったようにそう言う叶を阿砂耶は何とも言えぬ表情で一瞬見つめてから部屋を去った。後の部屋には叶の渇いた笑いだけが響いていた。
 
 
蘇芳の軍が到着して二日が経った。
京華は五万の軍勢のまま、十万に膨れ上がった敵に対して攻撃をしようともせずただただ待機するばかりだった。
椹は正直なところ、心底焦った。
京華は集めようと思えば手段を選ばず、十万どころかそれ以上の軍を集めることもできたはずだった。しかし目の前にいるのはたったの五万。
見晴らしのいい平地にある戦地では伏兵を隠す場所も見あたらない。蔚木の策に違いなかった。このままいたずらに戦いを挑み、蹴散らすことは可能かもしれない。
だが。
椹は判断をしかねていた。
「一体奴は何を考えているんだ」
すると横から征がこう言った。
「ゆっくり考えても大丈夫ですよ。篠青は大規模な農地を誇る国ですから、これだけ兵がいても食糧の心配はないし」
椹は『ゆっくり考える』といった征の言葉に反応した。もしかしたら相手はこちら側に何通りもの勘ぐりをさせておいて時間を稼ぐつもりではないだろうか。
──とりあえず一戦交えてみるか……。
蘇芳の天才軍師の決断が下った。
 しかし、戦いは得に変わったこともなく進んだ。
多少苦戦したとはいえ、戦いは蘇芳の勝利に終わった。そのあっけない勝利に、余計に椹は疑問を抱く。
──……蔚木がいなかった……?
しかし疑問を抱きつつも国境戦に勝ったがゆえ、軍は進まざるを得なかった。
薊も同様に不安がったが、椹ほどではない。
「蔚木は何を考えているのでしょうね。籠城でもする気でしょうか」
「いや、まさか」
椹は軍を進ませながら悩んだ。
しばらくして、一人の伝令兵が椹のもとに走ってきた。
「海から回り込んだ竜胆の軍が、全滅しました!」
「何だと!?」
椹の顔色が変わった。
「敵は八万……蔚木が将で恐ろしく強い精鋭の軍を引き連れてます! 次にはこちらへ向かってくるようです!」
「くそ、そう来たか……」
いったん軍を停止させて椹はまた考え込む。
──何を考えてるんだ、蔚木……。
「椹様、篠青からの食糧が来ませんね。遅れてるんでしょうか……」
征の言葉に、椹は嫌な予感がした。
そしてその予感は、篠青から来た伝令兵によって現実のものとなった。
「篠青が大火事で、食糧が全部やられました!」
椹は立ち上がったまましばらく動かなくなった。
軍と共に持ち運んでいる食糧は多くともあと三日しか持たない。
「篠青の農民が言うには、誰か怪しいものが放火をしたと……」
「蔚木め!!」
椹は手にしていた筆を地面にた瀧つけた。
「それが狙いだったか……くそ、どうすればいい」
薊は横から椹の様子をうかがっていた。征が椹の落とした筆を拾い上げる。椹は考えていた。
彼が取れるのは次の行動の二つだけだった。軍を大幅に減らしてでも食糧を保たせ、時間を作って蔚木の軍と戦うか、軍の数を減らさずにこの三日間で勝負をつけるか。
そうするうちに次の報告が来た。
「蔚木の軍が現れました!」
椹は目を閉じた。
 
 
 美利河達は京華の城の見える山まで来ていた。
 美利河達から見える城は明々と光に照らされ、軍がしっかりと守りを固めていた。
「こりゃあ中に入るのは至難の技だぜ。瀧、何か考えでもあるのか?」
「……さあな」
「さあなって、じゃあどうするんだよ」
 瀧は守りを固めている軍勢を見つめながら黙り込んだ。
 矢葺は頬杖をついてそんな瀧を見つめたが、美利河は腰の剣に手を当てるとこう言った。
「この間兄が逃がしてくれた北の門は古くて見えにくいところにある。忍び込むなら忍び込みやすい。私はそこからいくつもりよ」
「行くつもりったって……」
「大丈夫。瀧と矢葺は反対側から軍を混乱させてくれればいいわ。そのうちに椹の軍か鬱金の軍か竜胆の軍のいずれかがたどり着くはず。そうすればここの軍勢くらい何とかなるはずよ」
「でも、それじゃあ美利河は……」
「私は平気よ。ううん、私にやらせて。叶は私が倒さなくてはいけないの」
 美利河の真剣なまなざしに矢葺は言葉を失った。
「無理なことを言ってごめんなさい。あなた達のことも危険にさらしてるのはわかってる。それでも、やりとげなければならない気がするの」
「いやあ、危険は承知で来てるわけだけど……」
「俺達が時間を稼いでる間に軍が到着しなかったら終わりだな。俺達も死ぬし、美利河も見つかる」
 瀧はそう言って二人を見た。
「……他に方法がないのよ」
「……わかった」
 瀧は頷いて手綱をひいた。矢葺は黙ったまま美利河を見ていた。
 そんな矢葺に気が付いて瀧が動き出そうとした馬を止める。
「どうした、おじけづいたか?」
「……お前なんとも思わないのかよ。美利河一人を敵の懐の中に入れるわけだぜ」
 瀧は美利河を見た。
 美利河は凪の鼻先を北門の方へ向けるとこう言った。
「大丈夫よ。必ず叶を倒す。例え相打ちになっても。……信じて」
 美利河は掛け声をかけると、北門の方へ向かって降りていった。
 それを見届けてから瀧と矢葺は正門の方へと向きを変えた。
 城の前にいる大勢の兵を見て瀧が言った。
「ここに蔚木はいない。奴らは多分叶直属の近衛隊だろう。それに少々他の隊も混ざってるみたいだが……」
「で、俺達は時間をかせがないといけないわけだけど」
「死にたくないならここから帰れ。今ならまだ間に合う」
 そう言った瀧を矢葺は睨んだ。
「ふざけんなよ。美利河だって命をはってるのに俺だけ逃げ出すと思うか? 馬鹿にするのもいい加減にしろよ」
「悪かったな。それじゃ行くか」
二人は城の門に向かって走り出した。

雪山を通って国境を越えた鬱金の軍は敵の迎撃に会うこともなく順調に京華の都を目指して進んでいた。馬にのって進む兵の中には鵡斗の姿もある。
鵡斗はしばらく軍が進むままに進んでいたが、やがて途中で軍の将に歩み寄るとこう言った。
「少しここで休みませんか」
鵡斗がそう言うと、将は振り返った。
「何を言うか。我々は急がなくてはならない。こんなところで止まってはいられないのだ」
将はそう言って聞く耳を持とうとしない。鵡斗は東の森を見つめながらもう一度言った。
「ここで待ちましょう。竜胆の軍からの知らせがここを目指しています」
鵡斗が言うと将は驚いて鵡斗を見た。
「何故そんなことがわかる。お前がそんなことを知っているわけがあるまい。我々はこのまま進むぞ」
「いいえもうしばらく。もうすぐ、ここに知らせが来るはずです」
鵡斗の不思議な言葉に将は少しの間だけ軍を止めることを許した。
そして、しばらくして森の間から馬の足音が聞こえてきた。飛び出してきたのは茜だった。
馬にのった茜は駆け寄ると将の前で降りて息を弾ませながら言った。
「聞いて下さい! 竜胆の軍が全滅しました!」
「何と……!」
茜の言葉にまわりはざわめいた。
「どういうことだ?」
「はい。蔚木の軍に待ち伏せをされて……。敵は今度、蘇芳の軍の方へ向かってます。京華の城も完全に守りを固められているようで……。あれじゃ作戦通りに美利河達が忍び込むこともできない。だから、早く都に向かって下さい。あたしが通ってきた森をぬけたほうが道は狭いけれど近道です」
茜はそう言うと森の方を指さした。将は茜の言葉を信じて良いものか判断しかねた。
「信じましょう、この少女の言うことは間違いありませんよ」
鵡斗が言うと将は何故か少女の言葉が真実だと思えた。そして軍は小部隊に分かれて森の中へと消えていった。
 
美利河は城の北門へと向かっていた。
城は篝火で赤々と燃やされていたが、何故か北門だけは薄暗く、灯りがほとんどともされていなかった。門の付近に人影を確認した美利河は用心深く凪から降り、足音を消して門に近づいた。
剣には手をかけたが美利河は抜くつもりはなかった。その剣を抜く時は自分で決めていた。門に近づくにつれ、人影は一人だけであることに気がついた。何故かその影に見覚えがあると気がついた美利河は足を早めた。
立っていたのは阿砂耶だった。
「……兄さん」
美利河が声をかけると阿砂耶は少し微笑んだ。
「美利河、ここから叶のいる所へいきなさい。見張りは私が全て排除した」
「何故」
阿砂耶が空を仰ぐ。
「叶は自分の死を待っている」
美利河は驚いた。
「私には叶を助けることはできなかった。叶はもう自分の野望が叶わないことを知っている。お前に殺されるのを待ち望んでいるんだ」
美利河は言葉を失ったままその場に立ちつくした。
「私も、もうどうすれば良いのかわからない。美利河、お前に全てまかせよう。ここで京華が戦に負けても、いつかどこかの国が統一をなすだろう。お前が今すべきだと思うことをすればいい」
阿砂耶はそう言って城へ通じる通路から身をどけた。
美利河は未だ立ちつくしていた。
「私に……叶を殺せと言っているの」
「わからぬ。お前がそうしたいのならば」
剣に触れていた美利河の指が震えた。
「私は、……今でも私は兄さんみたいにたくさんの人の命を奪って、たくさんの人を哀しませた叶を許せたりはしないわ」
「……そうか」
 阿砂耶はそう言ってもう一度空を仰いだ。空は満天の星空だった。
「……星は大きく傾いた。全てを呑み込む流れは波乱の星の出現によってくい止められた。……あとはお前次第だ」
そう言い残すと阿砂耶は大軍が守りを固める正門の方へと歩き出した。
美利河はしばらくその場に立ちつくしていた。

 
椹は考えていた。
目の前に蔚木の軍が現れたあの時、椹はこの戦いに勝とうが負けようが、短期間のうちに勝負をつけることを決意したのだった。
だが。
短時間で蹴散らせるほど蔚木の軍は甘くない。いかに将軍金蘭がいないとはいえ、恐ろしいまでに敵は手強かった。椹は自分が考える全ての策が蔚木に読まれるであろう事がわかっている。
わかっていたからこそ、悩んでいた。
戦いは一段落ついて、蘇芳の方は大分痛手を受けていた。だがその状況から脱するだけの策も、椹には思いつかない。
「これで、お終いか……」
椹が思わずそう呟いたとき、薊が横からこう言った。
「諦めるなど、兄上らしくありません。この戦いは最後の戦い。我々は勝利さえ手にすればよいのです。どのような方法にせよ、勝利さえ手にすることが出来れば」
「その通りだが。……蔚木にも読めぬ奇策をと、お前は言いたいのだろう?」
椹が言うと、薊は首を振った。
「奇策などもいりません。きっかけさえあれば。きっかけさえあれば我々は必ず勝つことが出来ます」
「きっかけ、か……」
椹は横でお茶を飲んでいる征を見た。征は椹の視線に気がつくと、湯呑みをおいた。
「きっと椹さんは疲れてるんですよ。軍のみんなも僕も、こんなに疲れてるわけですから。……むこうもやっぱり、疲れてるんでしょうかね」
征はそう言ってから「少し休んだらどうですか」と言った。椹は首を振り、そしてまた考え出した。そして筆を置いて、こう言った。
「征殿、いますぐ斉夏の軍を準備させて下さい。相手陣営に気づかれないように」
「兄上。しかししばらくの休戦を約束したはずでは」
薊が口を挟むと椹は笑った。
「勝てばいいと言ったのはお前だろう。この際形などにこだわっていられるか。蘇芳の軍は卑怯だと言われようが勝った方の勝ちだ。征殿、闇を上手く利用して京華の軍の中心をたたいて下さい。そこに蔚木がいるはずです」
そう言う椹の顔は真剣だった。征は「はい」と答えてから立ち上がり、自分の部隊の方へと消えていった。
「薊。その後は頼む」
「わかっています」
「正直、お前がいなかったらここまではこられなかった。感謝している」
「そんな、感謝など……」
薊はそこまで言って言葉を切った。感謝したいのはむしろ自分の方だった。
「これはいちかばちかだ。失敗すれば我々は大切な右腕を失うことになる」
「ええ。でも……我々は勝ちますよ」
「……そうだな」
 椹は答えて、陣中から空を見上げた。
 
 
 阿砂耶の命令で城内はほとんど警備が無い状態になっていた。
必要なところに立っている兵も美利河にとっては大した敵ではない。美利河は想定していたほどの問題もなく叶の部屋までたどりついてしまった。
──私は叶を倒す時にこの剣を使う。そして私が剣の呪いに支配されてしまうなら仕方がない。でも人として……絶対に許せないことはあるのだもの。
 美利河は剣の言い伝えを思い出していた。
──たくさんの人を殺されて、それでいて赦せなんて無理よ。赦してしまったら、あの多くの人の哀しみは何処へ行ったら癒されるのよ。
 美利河は自分に言い聞かせた。
──私は呪いだって、乗り越えてみせる。
 そう心に決めて、叶の部屋の前にいる兵を剣の鞘で突き倒すと、扉を開けた。部屋に一歩踏み入れた瞬間、美利河はその部屋が得体の知れない何かに支配されているような違和感を感じた。
 間接的に灯で照らされた居間のようなその部屋には叶の代わりに風眞が立っていた。
「叶様は……奥の部屋にいらっしゃいます」
 風眞は呟くように言った。だが美利河が行こうとすると手を広げてそれを妨げた。
「……どうかあの方の命を奪わないで下さい」
 美利河はその時初めて風眞の悲壮な顔を見た。何年も何年も、苦しみ続けてきた心の疲れが陰となって顔にあらわれていた。
「あの方を……殺さないで下さい……」
「……何故」
 美利河は風眞に向き直って剣を鞘ごと床につけた。
「もうあの方のお迎えはとうの昔にいらしてるんです。医師の話では生きていることが不思議なくらいと」
「……いつから……」
 美利河は聞き返してからはっとした。聞くつもりはなかった。聞いてしまえば、同情の気持ちに流されてしまいそうな気がした。
「叶様は幼少の頃からお体の強いお方ではありませんでした。生まれたとき、医師は二十歳まで生きられるかどうかだと申しました。――今となっては薬という名目で盛られていた毒のせいかどうなのかすらわかりませんが」
 美利河は聞いたことのない話に驚いていた。最初は風眞が嘘をついているのかと思ったが、彼の表情を見ていると嫌でも本当のことだとわかる。
 それでも美利河はこう言った。
「叶を倒さなければ、戦いは終わりません」
 叶を赦すわけにはいかないのだ。
――私はたくさんの人の想いを背負っているのだから。叶は大切なたくさんの人の命を奪って、大切な故郷を滅ぼしたのだから。
 美利河の言葉を聞くと風眞は一層哀しげな表情をして下を向いた。しかしすぐに顔を上げて美利河を見た。
「……ではその前にあの方に何が起こったのか、聞いていただけますか」
 美利河は耳を塞ぎたかった。出来ることなら今すぐこの邪魔者を凪倒して憎き叶の首を討ち取ってしまいたかった。けれど。
 この部屋の、何故か大きくて重い、そして哀しい空気に押されて、美利河は首を縦に振っていた。
 風眞は口元に微笑みを浮かべた。
「ありがとうございます。……前の国王の時、太子が亡くなったのはご存じですか」
 美利河が頷く。寒菊がこの間話したことだった。
「……太子は、叶様が腹違いであれ、一番慕っていたお兄様で、よくできたお方で間違いなく次の国王になっていたはずでした。けれど次の王子が個人的な恨みのために太子を暗殺したのです」
 美利河は太子を殺したのは叶でなかったことに驚いていた。腹違いであれ、兄弟を殺せる者など、よほどの理由が無い限り、美利河の故郷にはいなかった。
「叶様は不幸なことにその現場を……目撃してしまった」
 嫌な話だ、と美利河は思った。ただ聞いているだけでも悪心がしてくる。
「あの時叶様があの場所にいなかったのなら、全ては違うようになっていたのかもしれません。けれど叶様はあの時あの場所にいた……。叶様は恐怖のためにお声を失ってしまったのです」
 そこまで言うと風眞はそれから先を言うのがとてもつらいことだというように一度額に手を当てて深く息を吐いた。おそらくこの人には、今までこんな風に全てを話す相手がいなかったのだろう。美利河には、風眞の重く辛い記憶が自分にのしかかってくるような気がした。
「叶様のお母様は国王の妃になる身分のお方ではなかったので、その出身に対する他の妃からの嫌がらせも多く……哀しいことにお母様が早く亡くなられた後も、叶様が同じ嫌がらせの対象となっていました。太子がご健在の頃はそれでも幾分か良かったのですが、叶様があの現場を目撃してから──特に太子を暗殺した王子などからひどい仕打ちを受けるようになったのです」
 風眞は声を詰まらせた。
 欲望と憎しみに支配された血みどろの王家。美利河の脳裏に、断片的にそのような映像が映った。
「……私は、叶様の乳母の息子で、ずっと叶様のおそばにいましたから全てを知っていますが、それは国王が亡くなるその日まで続きました。叶様は太子の亡くなった日以来、お声を失っていらしたので父君にも最期まで本当のことを伝えることができませんでした」
 風眞の声は震えていた。人の哀しい声はこんなに恐ろしいものだったのだろうか。美利河は思わず逃げ出したくなった。そのような運命を背負った人を殺すのは自分ではないと言って逃げ出したかった。
「そして太子を殺した王子が戴冠式を前に、叶様はその王子を殺害しました。その日を境に叶様はお声を取り戻され、ついには王位を自分のものにしてしまいました。あのお方の中には皆が言うようにまるで悪霊が棲んでいるようでした。その時あの方は、自分をその状況に置いた世界全てのものを憎んでいたのです。ですから全てを手に入れて滅ぼすことが復讐──あの方の生き甲斐だったのです」
 風眞は言い終えると美利河を直視した。その瞳は少し涙でにじんでいた。
「本当は、ただ普通の幸せが欲しかっただけなんです。けれども周りの大切な人が亡くなって行くたび、その願望は生きているものへの復讐となり、それでも返ってこない日常が許せずに復讐だけが大きくなってしまった……。私ですら、それを止めることができませんでした」
 美利河はしばらく何も言うことができなかった。部屋の空気は美利河を責めるようであった。
 この世の全てには因果がある。そう言ったのは老婆だったか。「行動の原因を聞けば相手を許せるはずです」いつか鵡斗がそう言った。
「あの方の命を奪わないで下さい。もう少し夢を見させてさしあげたいんです。あなたが殺さなくても、もうすぐ病魔があの方の命を、奪ってしまいますから……」
 風眞の言葉の最後の方は懇願するようだった。彼は願うような眼差しのまま、美利河の言葉を待った。まわりの空気が刺すように痛かった。心臓が高鳴り、呼吸が出来なくなった。
──私は……。
 体中の細胞という細胞が、風眞の言葉に従えと美利河に訴えていた。けれど美利河は。あの剣は。
「あなたの気持ちはよくわかりました。今ここで私が殺さなくても、誰かが必ず叶を殺そうとするでしょう。これ以上私の邪魔をするのなら、私はあなたを倒してでも叶を殺します。」
 美利河がそう言うのを聞くと、風眞は哀しそうに一歩下がった。
「……残念ながら私はあなたを止める武術も身につけていません」
 そう言いつつも、風眞から伝わってくる痛いほどの何かは、もし叶に何かあれば一生美利河を許しはしないと言っていた。
 美利河はそのまま奥の部屋へと向かった。叶が待っているはずの。
 外から大勢の人の声が聞こえてきた。おそらく鬱金の軍勢が辿り着いたのだろう。
──ここで私が許したら、大勢の人達の思いはどうなるのよ。
 美利河はそう自分に言って扉を開けた。
 暖炉があかあかと燃える暖かい部屋で、叶は大きな椅子に座っていた。ここは彼の寝室のようだった。
 先ほどのような重苦しい空気はここにはなく、部屋全体が何故かがらんとしているように感じられる。いわゆる人が生活しているという空気が全く感じられない部屋だった。
美利河が叶の方に歩み寄る。
叶は美利河が来るのをずっと待っていたかのように痩せこけてくぼんだ目で美利河を見つめていた。
「……僕を殺しに来たのか」
「そうよ。あなたのせいで大勢の人が死んで、そして哀しんだ」
「知ってるさ」
 叶は短く答えると椅子にもたれかかる。椅子は叶の身体を受け止めてもぎしともいわず、逆に美利河は叶の骨と皮ばかりの手に目がいった。
 美利河には叶がとても弱々しそうに見えた。顔色は悪く、頬は痩せこけていて、本当にこんな人物が天下を統一しようなどとしていたのか疑わしいほどである。
 それでも美利河の幼い記憶にあるあの眼差しは変わっていなかった。
「あなたのしたことはただの復讐よ」
「……ああ、そうだとも」
「……どんなに憎しみを抱いても、憎しみは何も生まないわ。あなたの憎しみが生んだ結果は、たくさんの人の死と、哀しみよ」
 美利河がそう言うと叶はもう一度身を起こした。少し長い前髪が目の上にかかり、うざったそうにそれを細い指ではねのける。
「それがどうかしたか。憎しみこそが僕に力をくれた。誰かを慕ってもその誰かはいつかは消え、誰かを信じてもいつかは裏切られる。僕は憎しみのおかげで強くなれた。そうでなかったのならもうとっくに墓の中だよ」
 痛々しいほどの想いが美利河の中に流れ込んできた。もしも私が叶と同じ運命をたどっていたなら、今の私でいられただろうか。
 美利河は首を振った。
「間違ってるわ」
 美利河がそう言うと叶は突然笑い出した。
「あはははは……お前はおかしな奴だな。憎しみは何も生まないとか言いつつ、今お前がやろうとしているのは立派な復讐じゃないか。他になんだと言うんだ? 結局お前も僕と同じだ」
 そう言われて美利河は気持ちが揺らいだ。自分だって叶を憎んでいる。
──叶を殺したからといって死んだ人間が帰ってくるのか。
 阿砂耶の言葉が蘇る。
──でも、私は……。
 鵡斗の笑顔、薊の瞳、寒菊の声、そして風眞の哀しそうな顔。
 それらと戦争で死んで地面に転がっていた多くの人が、ごちゃごちゃになって美利河の頭から消えていった。
「さあ、殺せばいい。その剣を使って殺せばいい。今のお前が剣をぬけばあたりは地獄に変わる。図らずとも僕の夢をお前が叶えてくれるというわけだ」
 叶の乾いた声だけが頭の中に届いた。静かに、真っ直ぐ。
──ああ、私は本当はこの人を許しているのかもしれない。
 真っ白な意識の中で美利河はそう感じた。けれども美利河の手は鞘から剣をぬいていた。不思議と前に持ったときのような感覚は襲っては来なかった。
 剣を振りかぶり叶に向かって振り下ろす。
 背後から誰かの声がした。
 剣は叶の左肩からばっさりと切り落とすはずだった。
 だが。
 銀色の光を帯びて剣の切っ先は床へとこぼれ落ちた。

神剣は、まっぷたつに折れていた。

自ら折れて落ちた切っ先を、呆然とした表情で美利河は見つめた。
──相手を赦したとき、剣はその相手を救うのだ。
 阿砂耶の声が蘇った。
 尖っていると思っていた憎しみの感情はいつの間にか浸食されて無くなっていたことに美利河は気づいた。
──この人を、救えるのなら。
 美利河は折れた剣に驚いている叶から、振り返って視線を部屋の入り口にたたずんでいる風眞に移した。不思議と心は落ち着いていた。
──この人を、救えるのは。
 その瞬間、風眞が叶のもとに駆け寄った。風眞の長い髪が、宙に躍った。
 風眞の手から刃物の光が流れたと思ったとき、それは風眞の心臓へと吸い込まれた。
 鈍い音がして叶の胸からどす黒い赤い血が噴き出し、風眞の手をも染めた。
「……風眞……何故……」
 信じられないという表情で叶は呟いて手を風眞の肩にのせる。風眞は一度目を伏せると微笑んで、こう言った。
「あなたはもう十分苦しんだ……共に、逝きましょう……」
 そして風眞は叶の血が付いた短剣を今度は自分の胸に突き刺した。
 やがて美利河がやっとそれを現実だと認識したときには、二人は床に崩れ落ちて死んでいた。
 美利河は体中が震えるのを感じた。持っていた剣の柄を離すと、膝の震えが止まらなくなり立っていられなくなった。
 そして崩れ落ちそうになったとき、後ろから誰かが支えた。
「美利河!」
 美利河はその声を聞くと、突然わけもなく泣き出していた。どうしても泣かずにはいられなかった。
 涙が、あふれてあふれて仕方がなかった。
 美利河を支えたその人は、そんな美利河を抱きしめていてくれた。
 
京華と蘇芳他諸国の戦争は、蘇芳側の勝利にて集結した。
蘇芳の軍は蔚木の軍との対決に勝ち、美利河が城から出てきたときには鬱金の軍と共にそこにいた。阿砂耶はその場で京華は蘇芳に全面降伏をすると矢葺に約束をし、事実上京華は蘇芳のものとなった。
茜と鵡斗は美利河の無事を喜び、椹と薊、そして征も勝利を喜んだ。
そして一行は蘇芳へと戻った。
勝利の吉報をたずさえて一行が蘇芳へ戻ると、芹は戦争の責任を取るため、自らの退位を表明した。そして矢葺の戴冠式と共に、祝いは盛大に行われた。
式が終わって宴が始まると、矢葺はすぐに美利河の姿を探した。
美利河は一人で窓辺に立っていた。
「美利河!」
矢葺が名前を呼ぶと美利河は振り返って微笑んだ。
「おめでとう。まさかあなたが王様になるなんてね」
「そうだよ。俺も今回ばっかりはしょうがないかなって気になってさ。いつも自分勝手ばっかやってたし」
「よくわかってるじゃない」
美利河はそう言って笑った。
「お前の兄貴にはホント感謝だよ。だって神様ってだけで京華の連中は何の不満も無しにうちに降伏だぜ? あの人がいなかったら今頃どうなってたか、大変だよ全く」
「ふふふ」
美利河はまた笑った。
「王様の格好結構似合ってるわよ」
「そうか? あ、そうだ、あのさ……」
矢葺は誉められて照れながら言った。
「ずっと言おうかと思ってたんだけど、俺さ……」
そこまで言ったとき、後ろから寒菊が声をかけた。
「ちょっと! 王様! そんなところで何してるのよ! ほら、挨拶とかしなきゃいけないんじゃないの!?」
「うるさいな! 何でそんなことおかまに言われなくちゃいけないんだよ!」
「だったら自分で気がついてさっさと来なさいよ! 馬鹿なんだから!」
「馬鹿だと!? ……あ、じゃあ、あとでな」
矢葺はそう言って手をあげると、寒菊の方に走っていった。美利河はその後ろ姿を微笑んだまま見つめていた。


数年後。実質天下を統一した国家となった蘇芳は、若き国王矢葺のもと少しずつではあるが国家の基盤を整え始めていた。戦争で疲弊した土地は国土に多く見られるが、それでもこれから大きな戦が当分無いということだけが、新たな国家となった民の希望だった。
さらにそこへ今、ひときわ明るい報せが飛び込んできて、城内も城下も、何かしら浮き足立っている。
「姉貴!」
変わらぬ調子で矢葺は芹のいる部屋に駆け込んできた。芹は鏡ごしに矢葺を睨む。
「いい加減に姉貴と呼ぶのはやめろ。統一国家の国王なのに恥ずかしいとは思わないのか」
「別にいいじゃんかよ、姉貴に話しかけるときくらい。他に誰もいないんだからさ」
矢葺がそう言うと芹は呆れ顔で自分の髪の毛を結っている召使いを横目で見た。
「でもさ、姉貴が嫁に行くなんて信じられないよな。やっぱり女だったかとはじめて思ったぜ」
「失礼だぞ」
とがめるように言ったが芹の顔は笑っていた。矢葺は壁に寄りかかりながらいつもと違う姉を眺める。
「人に王位を押しつけてそんな格好しちゃって結婚なんてさ。もしかして結婚したくて女王やめたんじゃないの?」
ふざけたように矢葺が聞くと芹は半分まじめな顔で、
「そうかもしれないな」
と答えた。そして召使いが髪を結い終わると、芹は矢葺の方を向いて今度は本当に真面目な顔をした。
「そう言えば……美利河からは連絡はあったのか?」
矢葺は肩をすくめてみせた。
「手紙どころかどこにいるっていう噂すらも聞叶よ。全く薄情だよな、宴の途中でどっかいってそのままなんて。剣を届けるとか言って探しにいった瀧とよろしくやってたら俺泣いちゃうよ」
半分ふざけて矢葺が言うと芹は笑った。
「それだけ軽口がたたけるなら平気みたいだな。……統一国家の未来はお前にかかってる。よろしく頼むぞ」
芹の言葉に、矢葺は真剣な顔をして頷いた。
 
 
「今日はお越し下さってどうもありがとうございました」
劇場の出口で出ていく客に寒菊は挨拶をしていた。そして客が全員はけると、一息をつく。
「ああ、今日も大変だったわ」
寒菊がそう言うのを聞くと劇団員の一人が言った。
「でも今日の出来は今までで一番良かったですよね」
「そうね。その出来の良さが今夜も発揮できるといいけど」
寒菊がそう言っているともう一度劇場の出口が開いて誰かが中に入ってきた。
「ごめんなさい今日はもう終わっちゃって……」
そこまで言いかけて寒菊は言葉を止めた。
「椹さん!」
寒菊が驚きに声を上げると、椹はにっこり微笑んだ。
「寒菊殿のお迎えにあがりました」
「あら、そんなわざわざ軍師様自ら……でもあたし達の出番は今夜だったんじゃないの?」
「ええ、それが。久しぶりに矢葺様が寒菊殿にお会いしたいとおっしゃったもので」
椹がそう言うのを聞くと、寒菊は「あら」と声をもらした。
「ですから劇団より先に寒菊様は城にいらしていただこうとお迎えにあがったわけです。軍師といえど、もう戦争の無い世の中になってしまったわけですからね、矢葺様を恨まないわけではありませんよ」
椹が笑うと寒菊も笑った。
「そうね、じゃあ久しぶりにあのおだんごに会おうかしら。あ、もう崩れおだんごじゃないのかしら?」
「ええ、まあ、そうですね。今は立派な国王ですから」
「ふふふ楽しみだわ。それじゃみんな、後の準備はよろしくね。あたしは一足お先にお城に行ってるから」
寒菊は劇団員に声をかけると、椹と共に外に出ていった。
 
 
「あー、もう、道がわかんないわ!」
茜は蘇芳の都に入る手前でうろうろしていた。
「ですから、ここから真っ直ぐへ行って、大きな道に出たら左に行って……」
関所の門番が説明しても茜はぶんぶんと首を振った。
「だから! あたしは丘の人じゃないから道を言われてもよくわからないの。迷っちゃうのよ。 あたしが言いたいのはお城まで送って欲しいってことよ。こんなか弱い女の子が……げほげほっ。いけない、丘酔いだわ」
茜はそう言って気持ち悪そうに胸をさする。門番が困り果てていると、後ろから馬にのった人物が現れた。
「どうかしましたか?」
声をかけた青年の方を振り返って茜が声を上げた。
「ああ、あんた確か斉夏の子でしょ。あんたも結婚式に呼ばれたの?」
「わあ! 竜胆の漁師の人だ」
茜が驚くと征も驚く。そして気を取り直すと茜は偉そうにこう言った。
「ねえ、どうせ一緒ならあたしのこと城まで送ってくれるでしょ? あたし丘にはなれてなくて酔っちゃうの」
普通に聞けば頭をひねりそうな茜の言葉にも、征は二つ返事で引き受けた。しかも「丘に酔うなんて大変ですね」という本当に心配そうな台詞つきで。
茜は馬に乗りながら征に聞いた。
「ねえ、今日のって美利河ちゃんも来るのかしらねえ」
「さあ。どこにいるかわからないって聞きましたよ」
征は答えて、馬を城に向かって走らせた。
 
 
瀧は美利河の折れた剣を手に持って、美利河の故郷の土を踏んでいた。
数年前に大惨事が起きたその場所は今はほとんど風化して土に埋もれていた。
瀧は村のあった場所を歩き、そして焼けこげたまま放っておかれた木に寄りかかって地面に腰を下ろした。
そして袋から折れた剣を取り出し、それを眺めた。
剣は以前と同じ銀色の光を放っていたが、もう呪いはかかってはいなかった。剣の折れた場所を指でなぞり、何故こんな丈夫な剣が折れたのかと瀧はいぶかしがった。
そして眺めているうちに瀧は目を見張った。剣の折れた場所には言葉が刻まれていた。
 
 
矢葺は姉の結婚式で騒がしい城の中央部から出て、自ら阿砂耶を呼びに行った。
阿砂耶の部屋にはいると、彼は椅子に座って目を閉じていた。
「ええと、準備の方は……」
「大丈夫だ。もうそんな時間か?」
阿砂耶がそう言うのを聞いて矢葺はほっとした。そして彼の部屋に飾られている見慣れない花に気がついた。
「あの花は? 誰かからの祝いの品?」
阿砂耶は花の方を振り返って答えた。
「そうらしい。差出人は不明だが、この花は私の故郷の近くにしか生息しない種類なのだ」
「てことは……」
 矢葺はそこで言葉を止めた。代わりに今度は阿砂耶が聞いた。
「美利河は……やはり見つからぬか」
「はい。全然音信不通です。自分の兄の祝いの席にも来ないなんて薄情ですよね」
「そうか。あいつはもう帰ってこないかもしれないな」
阿砂耶は遠い目をして東の空から昇ってこようとする波乱の星を窓から眺めた。
「あいつは波乱の星と呼ばれているあの星のもとで生まれた」
「……?」
「私の故郷では生まれた子に架せられた運命を星を読むことで知ることができる巫女がいてな」
「波乱かあ」
 何となく納得した様子で矢葺は首を縦に上下にふっている。
「波乱の星のもとに生まれつくというのは、なかなか珍しいことでな。何か大きな事の起こる前触れとも言われる。そしてその星があらわれるときは、神が判断を人にゆだねたときだと伝えられていた」
阿砂耶は歌うように言って言葉を切った。そして空を見やる。
「同じく叶も、珍しい星のもとに生まれた男だった。破滅の星と呼ばれる、それこそほとんど見られない星だ。――私の故郷を出て京華に仕えていた巫女はそのことを隠そうとしたらしいが」
「ふうん、破滅なあ。俺にはそういうことはよくわからないけど、確かにああいうやつがめったやたらにその辺にいたら困るだろうな」
 いつの間にか阿砂耶を呼びに来たという大切な用件を忘れたのか、矢葺は肘掛に頬杖をつきながら長椅子に横に腰掛けている。だらしない格好で足をぶらぶらとさせていてはせっかくの正装が台無しだ。
「――ただ、やり方はともかく、結果的にその二つの星の力によって、天下の統一も一気に進んだような気がするな」
「そうかもしれん。――そういえば矢葺、美利河の持っていたあの神剣に伝えられている昔話があるのを知っているか」
 矢葺は首を横に振った。
「叶とよく似ているような男の話だ。復讐にかられ、あの剣を手にして最後には自分をも滅ぼすような男の話。――まあ、大切なものを滅ぼそうとしなかっただけ、叶の方が幸せだったと言えるか」
「あの剣、美利河が持ったときも前大変なことになったぜ」
「それは美利河も方法を間違えれば叶のようになっていたかもしれんということだ」
「そうかなあ」
「――結局、神だなんだと言われても、私も美利河もただの人だ。人というものはいつまでたっても、神の掌の上でいたずらに泳がされているようにしか、私には思えない」
二人はしばらくそうして、星を見ていた。
空には見たことがないくらい、たくさんの星屑がちりばめられていた。



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