| 五章
「あの女が逃げただと!?」
叶は声を荒げた。
「はい……阿砂耶様と二人になったときに……」
看守がそう言うと、叶は振り返って阿砂耶を睨んだ。阿砂耶は眉一つ動かさずに見つめ返した。
叶は唇を噛み、看守の方に振り返って怒鳴った。
「貴様! そうなら何故もっと早く報告しないんだ!」
「申し訳ありません……すぐに捕まえられると思ったもので……」
「あいつはこの手で八つ裂きにして心臓を握りつぶしてやるつもりだったのに……この役立たずが!!」
叶が顔を赤くして力の限り怒鳴り散らすと、風眞が後ろから支えた。
「あまり興奮なさるとお体に触ります」
「うるさい!」
叶は風眞の手をふりほどいてしばらく看守を睨み続けたが、やがて息が落ち着くと、人が変わったように静かな声でこう言った。
「……山科の台地に奴隷を二百人集めろ。お前も一緒に行け」
叶はそう言って顎をしゃくった。
「叶様。このような寒い日に何をなさるおつもりですか」
山科につくと、風眞が馬から降りる叶を手伝いながら聞いた。
叶は風眞を無視し、集まった奴隷と、看守にこう言った。
「いいか。今から穴を掘れ。できるだけ深く、大きな穴をな」
叶がそう告げると、二百人の奴隷と看守は近衛隊が警備をする中で急いで穴を掘り始める。まるで叶の言葉を何よりも恐れているかのようだった。
空から地面に凍るような冷たい風が吹き付けていた。
「お風邪を召すといけませんね」
風眞はそう言って叶の肩に厚手の上着をかけた。
叶は二百人の人間が穴を掘り続けている間、黙ってその光景を身じろぎもせずに見つめ続けた。
そして、台地に深く大きな穴ができた頃。
叶は作業を続ける人々を見つめたまま、近衛隊長を呼び寄せた。
「お呼びでしょうか」
「……生き埋めにしろ」
「は?」
「あいつらをみんな穴に埋めるんだ。早くしろ」
叶のとんでもない命令に近衛隊長と風眞は驚きを隠せなかった。
「叶様、お言葉ですがそれは……」
「言われたとおりにしろ。命令が聞けないのか? 何ならお前も一緒にあの穴に放り込んでもいいんだ」
叶の冷たい刺すような目に、近衛隊長は背筋が凍るような気がした。
そして近衛隊長は黙って戻り、部下に叶の命令をそのまま伝えた。
数分後、二百人もの人々が次々と穴に投げ込まれる光景を叶は見ていた。
そして自ら「役立たず」と呼んだ看守をもが穴に埋められたとき、叶は腹の底からおかしそうに笑い出した。
「あいつら自分が死ぬためのの墓を掘ったんだ……あははは、おかしいな。なかなかそんな人生ってないものだろう」
そう言って叶は風眞の顔を見る。風眞は答えることが出来ず、曖昧に微笑み返すことしかできなかった。
笑いがおさまると、叶は自分の馬の方へと歩き出した。風眞と近衛隊は複雑な面もちのまま叶の後を追った。
寒菊と矢葺は宿の一階で宿の主人が出す茶を飲んでいた。
「ほんとにおいしいわ。宿も素敵だし宿のご主人も素敵だし」
「ありがとうございます」
お茶を飲んで前に座る主人が微笑みながら答えると、矢葺はお茶を吹き出しそうになった。
「お名前は何とおっしゃるの? ……結婚なさってるんだからそんなこと聞いてもしょうがないわね」
「ええ、まあ。名前は鵡斗といいます。あなたがたは?」
「あたしが寒菊で、こっちのおだんごが矢葺」
「誰がおだんごだ!」
「だっておだんご頭じゃない。ちょっと崩れてるけど」
寒菊に絡んでから矢葺ははっとした。
「鵡斗……鵡斗……なんか聞いたことあるな……寒菊、誰だっけ?」
「知るわけないでしょ。今日初めて知り合ったんだから」
「うーん……」
矢葺が悩んでいると鵡斗はお茶をつぎ足した。
「どこかで私の名前をお聞きになりましたか? それは興味深いですね」
鵡斗は丸眼鏡の奥の人の良さそうな目で微笑んだ。
「どこで聞いたっけなあ……えっと……うんと……」
そうして矢葺が悩んでいると、外へ通じる戸口が開いて、雪が入り込んできた。
「うわ、寒い……って、瀧じゃないか」
雪が吹き込んでくる戸口から入ってきたのは入り口が低すぎて身をかがめて入ってきた瀧だった。 続いて美利河もその横から入ってくる。
鵡斗はお客様専用笑顔を顔の上に作り、入ってきた新しい客に向けた。
「……いらっしゃいませ……美利河……?」
「美利河! 無事だったのか」
矢葺は叫んで立ち上がったが、美利河は何故か鵡斗を見たまま硬直しているようだった。
「鵡斗さん!」
美利河は叫ぶと鵡斗に抱きついた。
わけがわからない矢葺と寒菊がパニックに陥る。瀧は無表情のままだった。
美利河はずっと張りつめていた緊張が解け、泣き出していた。
「……美利河……」
鵡斗は優しく美利河の頭を撫でた。
「……鵡斗さん……村が……無くなったの……京華に滅ぼされたの……それで、それで私……」
興奮して美利河は言葉がうまく続かないようだった。
「風の噂に聞きました。美利河の事も聞きましたよ。……色々大変だったでしょう」
「私、私みんなを助けられなかったの……京華は私を捕らえるついでに村を滅ぼしたのよ。私のせいでみんなが死んでしまったの!」
そう言った美利河の顔は涙でぐしゃぐしゃだった。
「美利河、自分を責めてはいけません。終わってしまったことは、そうなるべくしてそうなったことです。あなたのせいでも、誰のせいでもないんです」
「私、鵡斗さんがいたらって……ずっと、ずっと思ってた……どうしてこんなに長く帰ってこなかったの?」
美利河が聞くと、鵡斗は顔を上げて戸口で立ったままの瀧に目をとめた。
「美利河、とりあえず落ち着きなさい。ここに上がって、お茶でも飲んで。そちらの方もどうぞ」
美利河と瀧は鵡斗に言われるままに中に上がる。
鵡斗は何も言わずに落ち着いた動作で二人にお茶を煎れた。
「……さて、まず何を話しましょうか」
鵡斗がそう言って全員の顔を見回したとき、矢葺がぽんと手を打った。
「ああ、思い出した。鵡斗っていえば、美利河の育ての親だったよな、そうだよな美利河」
美利河は静かに頷いた。
「あら、じゃあこちらも神様の村の出身なの? 何だかあたしの周りってすごい人が多いわねえ」
寒菊が呟いた。
「美利河の父……村の長が京華に殺され、嗣子である阿砂耶が連れ去られた後、私が代理として村の長をつとめました。矢葺さんがおっしゃったように同時に美利河の親代わりとなったのもこの私です。美利河の父親は私の良き友人でした」
「……」
美利河含む四人は神妙な面もちで鵡斗の話を聞いていた。聞こえるのは矢葺が茶をすする音くらいのものだ。 ふいに美利河が何かを思い出したように口を開いた。
「鵡斗さん、聞いて。私、魯喜を殺してしまったのよ。みんなの前で決闘をして、殺すつもりなんかじゃなかった。なのに、私は……」
鵡斗は少し驚いたように焦って話す美利河の様子を見つめている。
「私が村を出たのはそのせいなの。ごめんなさい鵡斗さん。怒ってもらってかまわない。私が悪いのだから」
「……そんなことがあったんですか。それは、つらかったでしょうね……」
鵡斗はそれだけ言うと、湯気の立つお茶を口に含んだ。
「それだけ? それだけしか言うことがないの? 私を怒らないの。ねえ、私は魯喜を殺したのよ。鵡斗さんの甥の魯喜を殺したの」
「……」
鵡斗は湯呑みを置いて、美利河を見た。
「それは悲しいことです。でも、それは今私があなたを責めてもしょうがないでしょう。あなたは殺すつもりではなかった。それに十分に苦しんでいるはずです。今さら私が何を言う必要があるというのですか」
「……でも……」
「私には何も言うことはありませんよ美利河」
美利河は唇を噛んだ。鵡斗の姿がこの間の阿砂耶と重なった。
「それより。他にも言いたいことがあったのではないですか?」
鵡斗は矢葺の湯呑みにお茶をつぎ足しながら言った。
「そうだ……何故今まで帰ってこなかったの? 私はずっとそれが不思議だった。いつもふらっといなくなるとは言っても、長すぎるし……それにこんなところで宿なんか……」
美利河が言いかけたとき、台所の方から暖簾をわけて一人の女性が顔を出した。
「あら、いつの間にこんなに大勢になっていたのかしら。声をかけてくれれば良かったのに。すみません今、お菓子をお持ちしますから」
優しそうな笑顔を浮かべて、その女性はまた台所へと戻っていった。
「今のは……」
「ああ、あれが私の家内です」
鵡斗はにっこりと微笑んだ。美利河が驚いて目を見開く。
「そんなに驚くこと無いでしょう。美利河、正直に言いますね。私はここでとても大切な人ができました。あの女性と、そして小さな私の息子です。私は彼らを置いて村へ帰ることはできませんでした。かといって小さな子供を連れて戦地を抜けて故郷へ帰る気もありませんでした」
「……それじゃあ……鵡斗さんは、あの村がどうなろうと、戻る気はなかったと言うのね?」
「はい。本当のところ、そういうことです。今の私にとって、京華に支配されたこの国で自分の一番大切な人を守ることが最大の使命ですから」
美利河は黙って鵡斗を見つめた。
「……鵡斗さんは、変わったわ」
「そうでしょうか」
「昔の鵡斗さんは村のみんなのために戦える人だった。それなのに……こんなところでたった二人の人間のために、村のみんなを見捨てることができるなんて……」
「私の大切な人達です」
鵡斗は静かな声で言った。
「もういい」
美利河は湯呑みを置いて立ち上がった。寒菊は二人の様子を交互に見比べてから湯呑みを置く。
「美利河ちゃん、あたしの部屋に行きましょうか。疲れてるんでしょ」
寒菊はそう言うと立ち上がって美利河を促すように二階の部屋へと上がっていった。
美利河は窓の傍の椅子に座ってしばらく荒れ狂う雪の様子を眺めていた。
寒菊はしばらくどうしようかと迷ってうろうろしていたが、やがて決心を固めると美利河の正面に置いてある椅子に腰掛けた。
「ねえ、美利河ちゃん」
「……」
「だいぶ怒ってるみたいだけど」
「……鵡斗さんが変わってしまったからよ」
寒菊は美利河の様子にどうするべきか、またも困って腕を組んだ。
「ねえ、美利河ちゃん」
「……」
「美利河ちゃんは鵡斗さんの事が好きだったのかしら」
美利河は初めて寒菊の顔を見た。
「そんな驚かないでよ。見てればわかるわ。だてにおかまやってるわけじゃないもの。憧れの人だったんでしょ」
美利河は黙って頷いた。
「……鵡斗さんは誰よりも強くて、優しくて……みんなのために戦える人だった。なのに、変わってしまった」
「ええと、多分それは変わってしまったんじゃないと思うのよ。ただ、守りたいと思う対象が変わっただけじゃないかしら。あの女将さんに会うまでは多分きっと鵡斗さんにとって一番大切なのは故郷の村だった……けれど、あの女将さんに会ってからは、その人が故郷よりももっと大切なものになったんじゃないのかしらね」
「……」
「自分の一番愛するものを守ろうとする気持ちは一番正直なんじゃないかしら。鵡斗さんはそれに従っただけよ。何も悪いことしたわけじゃないわ。美利河ちゃんにとって故郷がすごく大切なように、鵡斗さんには今あの女将さんと息子さんが一番大切なのよ」
「……でも……」
美利河は続ける言葉が見つからずに下を向いた。
寒菊の言うことには納得がいっても、今の鵡斗には納得がいかなかった。
「大好きな人がどこかへ行ってしまったようで、美利河ちゃんはそのことで納得がいかないのよきっと。そうでしょ。昔は自分のことを本当の子供みたいに大切にしてくれた人に、今では自分よりもっと大切な人達がいる。あたしが言うこと、間違ってるかしら」
「ううん、そうかもしれない……」
美利河は首を振った。
「全然関係ないかもしれないけれど、あたしもね、昔好きな人がいたのよ」
美利河は寒菊の思わぬ告白に顔を上げた。
「そんな驚かないでよ。あたしだって昔っからこんなんだったわけじゃないんだから」
「……それで? その人とはどうなったの?」
「うん。あたしの恋はね、……二度と成就しないわ。もう二度と、その人とは会えないから。くやしくってこんなおかまになっちゃったけど」
寒菊はにっと笑った。
「……大切なのは、その人を好きだっていう気持ちだと思うの。あたしは自分の恋が成就しなくても満足だわ」
「……そうなのかな」
「そうよ。それに、鵡斗さんは今幸せそうに生きているし、いいじゃない。美利河ちゃんは幸せよ。だって、ヤ……みんなに大切に思われてるしね」
寒菊は思わず矢葺の名前を出しそうになったが寸前のところで止めた。そして、美利河の顔をのぞき込んだ。
「どう? 少しは落ち着いたかしら」
「うん。ありがとう……」
美利河がそう言って微笑んだので、寒菊はほっと胸をなで下ろした。
一方、美利河達が消えた後しばらくして別の部屋に戻った矢葺と瀧は特に会話も無く、部屋でそれぞれ好きなことをしていた。好きなことといっても矢葺は寝転がりながら、剣の手入れをしている瀧を眺めているだけだが。
「……」
矢葺はそのまましばらく見ていたが、やがてそれに気がついた瀧が手を止めた。
「……何だ?」
矢葺は体を起こして瀧に向き直った。
「……お前さあ」
「……」
「美利河の事どう思ってるんだよ」
「……何の事かよくわからないな」
矢葺の問いかけに対してそう言った瀧は再び手を動かし始めた。
それに不満を持った矢葺は口を尖らせた。
「すっとぼけんなよ」
「とぼけてなんかいないぜ」
「嘘つけ」
「俺は嘘はつかない主義だ」
「それが嘘だって言ってるだろ」
瀧はまた手を止めて矢葺の顔を見た。
「……何が言いたい」
「そんな風にとぼけて俺のこと油断させるつもりだろ。いつもかっこいいところばっかもっていきやがって」
「それは八つ当たりだろう」
「ふん」
矢葺は今度は頬を膨らませた。そして瀧は何事もなかったようにまた手を動かし始めた。それを見て矢葺がまた寝転がる。
「もういいや。別に聞いたってしょうがないし」
瀧はちらっと矢葺を一瞥したが、またもくもくと手を動かしつづけた。
吹雪の中、蘇芳の将軍薊率いる精鋭の軍は竜胆と鬱金の国境に辿り着いていた。
吹雪のため一次休戦中の野営で薊は竜胆の将軍のいる大きな天幕に迎えられた。
「蘇芳の将軍、薊様です」
薊が兜を脱ぐと、顎髭を生やした竜胆の将軍は目を丸くした。
「東一の強国、蘇芳の将軍が一体どんな奴かと思えば、女とは。我々も蘇芳を過大評価しすぎていたかもしれんな」
将軍がそう言うと、周りの人間が小さく笑った。
薊はその場の雰囲気の悪さに眉を少し動かしたが、動じることはなく、
「蘇芳の軍師椹より書を預かっております。ご覧ください」
と言って竜胆の将軍に椹からの文を手渡した。
将軍はしばらく椹の文を読んでいたが、読み終わると憤慨した様子で文を握りつぶした。
「この女将軍に指揮をゆずれだと!? 蘇芳は勝つつもりはないのか! 女が指揮をとって勝てるわけがない! 我々は今まで善戦をしてきた! ここで負け戦をするつもりはないぞ!」
将軍は立ち上がって怒鳴った。薊は兜を小脇に抱えたまま将軍をにらみ返した。
「蘇芳の軍師の策に従わなければ間違いなく負けるでしょう。従えば勝機はあります」
「何を! 貴様一体何のつもりだ! 女が戦に出て何になる!」
意気込んだ将軍の喉元に薊は剣を突きつけた。
「従うか従わないか、今ご決断を。私としてはこのように隙だらけの将軍が指揮を執る方がよほど危険だと思いますが」
「くっ……」
将軍は薊の強烈な威圧感に押されるのを感じた。
「くそ、仕方あるまい……! 今日からこの蘇芳の薊将軍が指揮を執る。お前達将軍の指示をよく聞け」
将軍がかすれた声で叫ぶと、薊は剣を鞘におさめた。薊は周囲を見渡すと、すんだ良くとおる声で言った。
「作戦は明朝に伝える。それまでよく休んでおけ」
一方、征を含む別部隊も篠青との国境に辿り着いていた。
北の鬱金とは違い、雪も降っていない篠青との国境線は熾烈を極めていた。
「蘇芳の援軍が到着しました!」
竜胆の将に兵が報告に駆けつけた。その後ろから二万の援軍が姿を現す。
援軍の指揮を頼まれた蘇芳の副将軍は征を連れて前に進み出た。
「すでにお話がいっていると思いますが、こちらが斉夏の少年です。敵陣に送り込む事ができれば、斉夏を寝返らせることができるかもしれません」
「話は聞いております。敵陣まで護衛をつけましょう。斉夏の軍を一次休戦に追い込むだけでもこちら側としては多分に楽になります。どうかよろしくお願いします」
竜胆の将にそう言われ、征は胸が高鳴るのを感じた。
「はい。僕に出来る限りがんばってみます。皆さんも頑張ってください」
征はそう言って護衛と共に馬に乗った。そして征達は激戦が行われている平地ではなく森を抜け、敵陣へと向かった。
遠くに斉夏の旗が見えた。おそらくあそこに彌刀がいるのだろう。征は大きく息を吸い込んだ。 敵陣の周りには兵士が見えた。おそらく斉夏のものだろう。
そして京華の旗も、もう少し奥に見えた。
「ここでいいです。後は僕一人の方がいいですから」
征は自らそう言って護衛をその場に残した。
征が斉夏の陣に近づくと、陣を守っていた兵士が征に気がついた。
「征! 征か!?」
護衛の兵士はやはり斉夏の人間である。征は見慣れた顔にほっと胸をなで下ろした。
「うん。彌刀に会いたいんだけど……いるかな?」
「ああ、いるとも。お前、一体どうしたんだ? 奴等に連れて行かれたのか? よく戻ってこれたな」
征は知り合いの猛烈な質問攻めに曖昧に答えつつ、彌刀のいる天幕の中に案内してもらった。
彌刀は征の姿を見ると、闇色の目を見開いて思わず立ち上がった。
「……征……!」
征はどう答えてよいかわからず、黙って彌刀を見ていた。
「お前、今まで一体どうして……」
「彌刀、どうしておじいちゃんを殺したのか教えて」
征がそう言うと彌刀は真剣な表情になった。突然口元が強張り、同じ天幕の中に居た者たちにはずすように命じた。
やがて人が出払うと、彌刀は昔のような表情に戻って、こう言った。
「ごめん……これ以上犠牲を出さないためには、それしかなかった」
「どういうこと?」
彌刀は征に近くの椅子に座るように言った。
「じいちゃんは、族長として、斉夏の誇りのために京華に立ち向かった。けれどその結果たくさんの人が死んだだろ? しかも、西を統一して天下統一まであと一歩の京華に、僕たち斉夏の一族が勝つ術はなかった」
「でも、美利河さん達が来たじゃない」
「いいか、考えてもみろよ。いくら蘇芳が美利河という人間を掲げて竜胆を寝返らせ、力を盛り返しても、まだ京華の大軍の足元にも及ばない。もしこれから僕たちが力を貸して、そして鬱金や、篠青を寝返らせて京華に勝ったとしても……その後に何が残る? また小国同士の小競り合いだ。戦いは終わりっこない。だったら今すぐ大国の京華に加勢して天下を統一してもらったほうがいい。そうしたらもう無意味な戦いも無くなるしな」
「でも、おじいちゃんの気持ちは……」
「一族の誇りなんかのためにみんなが戦って死ぬことはない。征だってそう思わなかったか?」
征は下を向いた。
「大体、蘇芳の奴等も下手な意地を捨てて早く降伏すればいいんだ。そうすればもう誰も戦わずにすむ」
「でも、それじゃあ……みんな殺されちゃうよ」
彌刀は「何で?」と聞き返した。
「だって、おじいちゃん言ってたじゃない、叶になんか天下統一させたら、みんな殺されるって。おじいちゃん、叶の望みはこの世を地獄に変えることだって言ってた」
「そんなのできるわけないだろ! じいちゃんはみんなの志気を高めるためにそんな嘘ついていただけだ。じいちゃんは一族の誇りにこだわっていただけだよ」
「違う。美利河さんも同じ事言ってた。叶みたいなやつに天下統一させたら終わりだって。僕はおじいちゃんの言うことを信じる。だから、彌刀もそうしようよ」
「馬鹿だな!」
彌刀は立ち上がった。
「お前、奴等に洗脳されたのか? 僕の言うことより奴等の言うことを信じるのか!?」
「違うよ。いつだっておじいちゃんの言うことは正しかった。彌刀も彌刀なりに考えてると思うけど……おじいちゃんを殺すのは、間違ってたよ」
彌刀はばつが悪そうに横を向いた。
「今回は、僕は彌刀を説得に来たんだよ。蘇芳の軍師様の命令だけど、僕の正直な気持ちだよ。彌刀、おじいちゃんがしたように、京華に立ち向かおうよ。それがだめなら、この戦いをやめるだけでもいい」
今まで何度も兄のような彌刀に無理なお願いを繰り返してきた征だったが、今回だけはかつてなく真剣だった。この話を聞き入れてもらえなければ最悪、彌刀か自分のどちらかが死ななければならなくなるだろう。
「そんなことできると思うのか……? お前、いつから僕たちの敵になったんだ」
「敵じゃない。彌刀を説得しにきたんだよ。みんなだっておじいちゃんのやり方に納得してた。今からだって、ちゃんと話せばわかってくれるよ」
「だめだ」
彌刀は首を振った。
「僕には僕の考えがある。京華が天下を統一すれば戦いのない世界ができるんだ。征にも自分の考えがあるっていうんなら、今この場で、僕を倒せばいい」
彌刀はそう言って剣を抜いた。
「ま、待ってよ、どうしてそうなるんだよ」
「僕の考えはそれだけ固いってことだよ。さあ剣を抜くか抜叶か考えるんだな。抜けば征の思うとおりになる確立は五分五分だよ」
征は立ったまま迷いに迷った。
彌刀とは戦いたくなかった。けれど、死んだ祖父の遺志を無視した未来も嫌だった。
「剣の稽古のときはいつも互角だったよね。今はどうかな」
彌刀はそう言って剣を構えていた。
「……彌刀とは戦いたくない」
「それじゃ、今すぐここから出て行くんだ。今は征の我儘に付き合っている時じゃない。本気でないのならさっさと消えてくれ」
征は右手で剣の柄を握って、まだ迷った。
本当の剣でやり合えばどちらかが死ぬのはわかっていた。
──彌刀とはずっと仲良くしていたのに。
心の中でそう呟くのを最後に、征は迷いを断ち切るように剣を抜いた。
「征にそんな度胸があるとは思わなかったよ」
剣を構えた征を見て、彌刀は驚いたように言った。
──たくさんの人の、運命がかかってるんだ。
征は乾いた唇を噛んだ。
あたりの空気が張りつめる。
どちらも、互いが動き出す瞬間を狙っていた。
そして。
先に動いたのはどちらだったか。
二つの剣先が弧を描いて、世界から音が消えた。
そして永遠と思われるような時間が過ぎた後、片方の剣が床に落ちた。
彌刀の体がゆっくりと倒れたとき、征が振り返った。
「彌刀!」
征は駆け寄って彌刀の体を仰向けに起こす。
征の腕は彌刀によって軽い傷を受けていたが、征の剣は彌刀の急所を突いていた。
「彌刀! 大丈夫!?」
征が叫んでいると外から護衛をしていた人達が駆け込んできた。
「彌刀! 征、これは一体……」
全員の視線が征に集まると、彌刀は苦しそうに上体を起こしながら言った。
「二人で、納得の行くように決闘をした結果です……誰も征を責めないでください……それから、征の言うとおりに……」
「彌刀! 死んだらやだよ!」
「……じいちゃんを殺した時のこと……思い出した……征までも、手にかけたら生きていけないよ……」
「早く止血を!」
誰かが叫んで数人が彌刀の周りを取り囲んだが、彌刀はすでに意識がなかった。
「彌刀、彌刀ぉ……」
征は泣きながら彌刀の体を揺すった。
彌刀はもう二度と動かなかった。
そして。
斉夏はその日のうちに蘇芳に寝返った。
一気に膨れ上がった蘇芳と竜胆の軍勢の前に、京華と篠青のわずかな軍はあっけなく敗れ去った。
かくして京華は篠青から軍を撤退させ、篠青は京華の手から解放されたのだった。
翌日、薊はまだ吹雪が荒れ狂う中で軍の上層部を集めて作戦を説明した。
薊の作戦は蘇芳の精鋭部隊を中心に組まれたもので、吹雪が弱まり次第すぐ決行することになった。
「あんな作戦を立てて……そんなに蘇芳の部隊は自信があるのか」
何人かは疑問を抱いた。だが、薊はこう言ってのける。
「私が信じられなければこの場から去ってもらおう。作戦の邪魔だ」
薊の言葉は誰にも有無を言わせなかった。
そして日が出ていれば真上に昇っている頃、吹雪が弱まったのを見計らって薊は作戦を決行した。
瀧は宿の部屋で椹から届いた文を読んでいた。
「……何て書いてあるの?」
「篠青との国境戦に勝ったらしい。京華は軍を撤退させて篠青から手を引いた」
「あら、やったじゃない」
「それに鬱金との国境戦も、まだ始まったばかりだがこちら側が優勢だそうだ」
瀧は言い終わると文をたたんで顔を上げた。
「それで、美利河を連れて帰ってこいと」
「やっぱりね」
寒菊は腕を組んで美利河を見た。
「俺だったら美利河を戦地に連れていって鬱金も寝返らせるな」
「馬鹿野郎! 戦地に連れていくなんてそんな危険な事できるか!」
矢葺が瀧に反論する。
「私が行ったらうまくいくと思う?」
「……敵陣に乗り込めたらな」
瀧に聞いた美利河は別に嫌そうでもなかった。
「美利河、戦争は薊にやらせとけばいいんだよ」
「でもこのままただ蘇芳に帰ってもしょうがないもの」
「……」
矢葺は反論しなかったが頬を膨らませて不服の意を表した。
そんな矢葺に苦笑しつつ、寒菊が言った。
「でもどちらにしろ、そろそろここを出た方がいいわ」
寒菊の意見に反対するものはなかった。
美利河達は荷物をまとめて階段を下りた。下では鵡斗と町の人が話をしている。
「……これで二人目です……私はもうどうしていいか……」
「……」
「戦なんて早く終わってしまえばいいのに……」
疲れた顔をした女の人がそう言うのが聞こえた。
鵡斗は美利河達に気がつくと顔を上げた。
「もう行くのですか」
「はい」
鵡斗は美利河の方に向き直り、立ち上がった。
「美利河、戦いはたくさんの人の命を奪い、たくさんの人の哀しみを生みます。この町でも多くの人が戦いにおいて命を落とし、そしてそれよりもっと多くの家族が哀しんでいます。わかりますか」
「わかるわ」
「美利河、あなたが一体何のために戦うのかをよく考えてください。自分の中の憎しみのための戦いで他人を傷つけてはなりません。私はあなたに、誰かのために戦えるようなそんな人になってほしいと願っています」
鵡斗はそう言って美利河の肩に手を置いた。美利河は鵡斗を見つめ返すと、頷いた。
「それではいってらっしゃい。あなた方の道行きに幸おおからん事を」
かつて老婆が美利河を故郷から送り出したときと同じ言葉で、鵡斗は美利河を送り出した。 そして雲に覆われた空に、美利河達の無事を願った。
暗闇の中からたくさんの手がのびていた。
思い出したくない声が空間の中でこだまする。
耳をふさごうとすると、たくさんの手がそれを制した。
その手が、これから自分を苦しめようとしているのを少年は知っていた。
助けを呼ぶ声をあげると、暗闇に誰かが浮かび上がった。だがその誰かは、たくさんの手によって粉々にされてしまった。
絶望と恐怖の中で少年は声を失った。
たくさんの手はどんどん増え、そして少年はその中に呑み込まれた。
叶は寝台から飛び起きた。
今見た悪夢のせいで体中嫌な汗でびっしょりだった。上がった息を落ち着けようと試みたが、全身震えがとまらない。
「風眞!」
従者の名を呼んで自分の声が出ることを確認した叶はいくらか楽になった。すぐさま部屋の扉が開く。
「叶様、いかがなされましたか」
入ってきた風眞は叶が顔面蒼白になって震えているのを見て大体状況がのみこめた。以前にもこのようなことはたくさんあったからだ。 風眞は叶のすぐ傍で腰を下ろした。
「……夢を見た」
叶はぽつりと言った。
「ええ」
風眞が答えると、叶はひどく疲れたように風眞の肩に頭をもたせた。
「たくさんの手が……暗闇の中で僕を襲うんだ。兄上はその手によって粉々にされた」
「……」
「何度も同じ夢を見る。……目を閉じるのが恐いくらいだ」
叶は呟いて、窓から見える空を見つめた。
美利河達は、吹雪がおさまったものの、まだ雪の降っている中を竜胆への国境を目指して馬を走らせていた。 冷たい雪と風が顔に当たった。寒菊だけが「あたしの自慢の黒髪が濡れちゃうわ」とぼやいていたが、他は誰も何も言わなかった。
瀧は先頭を走り、矢葺はそれに負けじと飛ばす。美利河は雪の中で四人がはぐれないように常に周囲を見回していた。
二つ目の街を通り過ぎたとき、瀧が馬を止めた。続いて全員が止まる。
「……聞こえるか」
瀧が誰にともなく聞いた。美利河達は頷いた。
遠くからたくさんの人の声と剣の交わる音が響いてきた。
「そこの森を抜ければ敵陣が見えるはずだ」
瀧はそう言うとまた走り出す。深い森を進むと、向こうから灯りと、人が動く影が見えた。四人は木の陰に身を潜めて様子をうかがった。
敵陣には煌々と明かりが灯っていて、大きな京華の旗が翻っている。白い大きな天幕が張られていた。
「お前達一体何をもたついているんだ! 兵の数ではこちら側が勝っているんだぞ!」
男が怒鳴る声が聞こえた。
「京華の将軍……金蘭か」
瀧が呟く。陣の中では金蘭が立ち上がっていた。
「で、ですが金蘭様、新しく加勢した蘇芳の五千の軍が少数ながらも恐ろしく強いのです」
「俺の軍がそれに劣っているとでもいうのか!」
「と、とんでもございません」
報告に上がった兵はびくびくしながら金蘭の顔色をうかがった。
金蘭はしばらく腕組みをしながら陣の中を歩き回っていたが、やがて今まで座り込んでいた一人の白髪の男が金蘭に声をかけた。
「……蘇芳が力を増したのはその軍の強さばかりではありますまい。蘇芳側の軍師は恐ろしく策の立つ男のようですな。そしてその妹の女将軍……」
「蔚木殿か。何か策はあるのか」
「三万対二万五千。数ではまだこちらが勝っております。しかしそれがばらばらに攻撃をしていては意味がありません。蘇芳の精鋭の軍は一カ所に集まり我が軍の壁をうち破ろうとしております。恐ろしいのは新しく加勢した蘇芳の軍のみ。そこを叩けば恐るるにたらん相手だと言えるでしょう」
「なるほど。よし、我自ら出陣し、蘇芳を一撃の下に粉砕してくれるわ」
金蘭はそう言うと自ら先頭を切って出陣した。
「今出ていったのが京華の将軍、金蘭だ」
瀧が美利河たちに伝える。
「……で、これからどうするんだよ」
じっとしているのは寒いとばかりに矢葺は自分の手で体をさすっていた。
「矢葺。お前は皇子だがこんな戦場にいても平気なのか」
「うるさいな、馬鹿にするなよ。自分の身くらい自分で守れる」
「そうよ、瀧もいい加減矢葺のこといじめるのやめなさいよ。それに心配するなら相手を間違えてるんじゃない? 普通ならあたしのことを心配するはずよ。だってこの中で一番か弱いんですもの」
「……兄貴は心配いらねえよ……」
瀧は呆れ顔で寒菊に言った。
「瀧、何か考えがあるのなら早く言って。本気になったらあの京華の大軍相手には薊もつらいと思うの」
二人の言い合いを制するようにして美利河が聞くと、瀧はあっさりと答えた。
「そうだな。簡単なことだ。お前が金蘭の首をとって掲げればいいだけの話だ」
本当に簡単そうに言った瀧に矢葺が憤慨した。
「馬鹿野郎! あんな大男相手にどうやって美利河が戦うんだよ!」
「実際に戦うのは俺だ。美利河はその首を掲げて蘇芳の勝利を言い渡せばいい。その間、矢葺と兄貴は陣にいるあの厄介な蔚木とかいう爺の動きを止めておいてくれ。戦場から追い出すことが出来れば成功、殺してしまっても構わない」
「あたしにできるかしら」
「……いちいちうるさいな」
瀧はもう一度ぼけたら殺すぞ、というくらいの勢いで寒菊を睨んだ。
「わかったわよ。それくらいならまかせて。矢葺も一緒だし」
「またおかまと一緒かよ。おいしいところだけ持っていきやがって」
「だったらお前が金蘭とやるか」
「……」
本気な瀧の目を見て矢葺はそれ以上言うのを諦めた。所詮自分のかなう相手ではない、と思ったらしい。続けて瀧が策の全体を説明する。
「美利河が金蘭の首を取ったのを見れば、今まで京華と共に戦っていた鬱金の軍が戦意を喪失、そして蔚木が動叶となれば京華の軍も散り散りになるだろう。そしてまたここに勝利を導く美利河の伝説ができるということだ」
「何でもいいから、早く行きましょう。薊だっていつまで持つかわからないわ」
言うが早いか、美利河が先に飛び出した。それに瀧も続く。矢葺と寒菊は陣の見張りに気づかれないように回り込んだ。
林を蔭に陣の脇の通って戦地に出ると、大勢の人間が戦っていた。その中で金蘭の赤い鎧はひときわ目立つ。
瀧は人混みを抜けて真っ直ぐ金蘭に向かって走り、腰の剣を抜いた。周りの人間が気がついたが、その者達が瀧に襲いかかる前に金蘭が振り返り、瀧の剣はまず金蘭の兜を宙へと飛ばした。
「貴様何者だ!」
「……答える必要はない」
瀧は剣の柄を掴もうとした金蘭の右手を切り落とし、そしてもう一度剣を振りかぶって金蘭の大きな頭を切り落とした。
周囲にざわめきが起こると同時に、瀧は肩に一本の矢を受けた。
次の反撃が来る前に瀧は周囲の兵を蹴散らすと、美利河の名を呼ぶ。
指揮する者を失った京華の軍はあわてふためき、陣形を崩して戦は混乱の様相を呈した。そしてそんな混乱の中で高い声が響いた。
「我々蘇芳は今勝利を手にした!」
美利河が長い髪をなびかせて金蘭の頭を掲げるとざわめきがどよめきに変わった。
攻撃の手が一斉に止む。
「……金蘭様が……」
「京華の最強の金蘭様が……」
「……京華の負けか……?」
京華側の兵は困惑を隠せなかった。
やがて蘇芳の方から歓声が上がる。
「我々の勝利だ!」
「美利河様が討ち取ったぞ!」
美利河の名を聞いて戦いに加勢していた鬱金の軍がひるむ。誰の指示も受けられない京華の軍は一目散に逃げ出した。
そして鬱金は、降参の意を表す白い旗を揚げた。
「美利河様、よくご無事で」
薊が近づいてきて美利河に手を差し出した。美利河はその手を握り返した。
「今回は美利河様のおかげです。あのままでしたら、もしかしたら蔚木の策の前に敗れ去っていたかもしれません」
薊がそう言うと、後ろから矢葺の声が聞こえた。
「美利河! 無事だったか! 蔚木は逃がしちゃったよ」
矢葺は美利河の方に駆け寄ってきて頭をかいた。
「あんたがぼやぼやしてるからでしょ」
「嘘付け! 誰だよ服が汚れちゃうわとか言ってろくな仕事もしなかった奴は!」
「何言ってるのよ。大体ね、こんな事あたしに頼むからいけないのよ」
「それは瀧に言えってば!」
「そういやそうね」
そう言って寒菊は瀧の方をちらりと見た。瀧は未だ肩に矢が刺さったままで、全身に様々な傷を負っている。
「そちらの方の手当もした方が良さそうですね。我々の本陣の方へどうぞ」
薊はそう言うと身を翻した。
勝利を導いた者が美利河であったことに、竜胆の将軍は不服の意を隠せないようだった。彼の本音としては自分の軍でも十分勝つことはできたと言いたかったようだが、薊を目の前にそんなことは言うことが出来ない様子である。
瀧には寒菊が付き添い、矢葺は寝ている中で、美利河はたまたま薊と二人になった。薊は女性らしく、天幕の中で美利河に茶を煎れてさしだした。
「美利河様とこうして向き合うのは初めてですよね」
「ええ、矢葺と蘇芳に入ったとき、初めて会ったときには驚きました。女性の将軍なんてなかなか聞叶ものだから」
「みんなそう言います」
薊はそう言って立ち上る湯気を見つめた。
「蘇芳は女王が仕切っているくらいだから、将軍が女でも驚くことはないと私は思うんですけどね」
「それは矢葺にも言われました。でも、兄妹そろって、軍師に将軍なんてすごいですよね」
「私の父は将軍でしたから」
薊は窓の外を見た。
「本当は……兄が将軍になるはずだったんです」
「椹が? 本当に?」
「ええ、でも私と一緒に馬で遠出をしているとき、崖から落ちて、二度と馬に乗れない体になってしまったのです」
美利河は椹の引きずっていた足を思い出す。
「そうだったんですか」
美利河は床の木目を見つめながらお茶を飲んだ。
「……私がやったんです」
「え?」
「あの時、私が兄を突き落としたんです……。誰にも話していませんが。私は全てにおいて兄にはかなわなかった。父は女だからそれは当然だと言い、私は女に生まれた自分を呪いました。私は父のように将軍になりたかった……それで兄を、突き落としたんです」
美利河は顔を上げて薊を見た。
「ごめんなさいね、こんな話をして。でもどうしても誰かに話さずにはいられなかったんです。兄は私が突き落としたことを誰にも言いませんでした。そしてその才を活かして軍師になった今も、将軍の座におさまっている私に何も言わないのです。結局、勝手に逆恨みして憎しみを抱いていたのは私だけだったんです。――今は後悔で苦しむばかりですよ」
美利河は薊に何と言っていいかわからなかった。
薊は自嘲気味に笑ってみせた。
「私が兄を突き落としたのが、今のあなたくらいの歳の頃だったんです。それにあなたは神の村の人だから……懺悔でもしたくなったのかもしれません」
美利河は思わず老婆にもらった剣の鞘に触れた。指先がしびれる感覚がした。
「篠青からも、鬱金からも京華の手を引かせることに成功しました。兄は今度こそ京華に総攻撃をかけるつもりでしょう。明日は蘇芳に帰ります。それまでゆっくりお休みください」
薊はそう言うと席を立って自分の寝所を設けた天幕へと消えていった。美利河の中に、薊の苦しそうな瞳の光だけが残った。
叶は自室で頭を抱えていた。
一昨日、篠青の国境戦で負け、篠青が蘇芳側についたという報告を受け、今さっきそれに追い打ちをかけるように鬱金での戦に負けたという報告が届いた。
しかも鬱金での国境戦では美利河が現れ、頼りの将軍金蘭を討ち取ったという。そのせいで鬱金は完全に美利河の奇跡を信じ、蘇芳側に一転したと報告書には書かれていた。
叶は積み重ねていたものが少しずつ崩れ去るのを感じていた。
震える手で瓶を取り、杯に酒をつぐ。南方の酸味のきいた冷たい液体が喉を通るのを感じると幾分か落ち着いたような気がした。
「叶様」
扉を開けて風眞が入ってきた。叶が顔を上げると風眞は心配そうな顔をしている。
「聞いたか? ……もう少しで、うまくいくはずだったものを……」
「そうでございますね」
叶は杯が空になると瓶の中身をつぎ足すという動作をしばらく繰り返した。風眞は黙ってみていたが途中でなだめるように言った。
「そんな風に飲まれてはお体に触ります」
「……どうせ飲んでも飲まなくてもあと残り少ないのは変わらない」
「おやめください」
風眞は叶の肩を掴んだが、その折れてしまいそうな、あまりの細さに手を離した。
「お疲れでしょうから、今日は早くお休みください。明日にでも蔚木殿がここに着けば……」
「死人のようだと思ったか」
射るように見つめてくる視線に、風眞はため息をもらす。
「もしかするともう死んでいるかもしれないな。ここにいるのは幽霊なのかもしれない」
「そんなことを……。疲れていらっしゃるんですよ」
「お前はそうやっていつも目を背ける。死に神はすぐそばに迎えに来ているというのにな」
「……」
「だがその前に、まだやらなければならないことがある……」
最後の力をふりしぼるようにそう言う叶を見て、風眞は哀しさが溢れ出るのを抑えるのに精一杯だった。
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