四章

 皇后の死を境に菖蒲は完全に皇后としての権力を握るようになった。それは後宮の全てを菖蒲が支配するのと同じことである。葬儀の数週間後、反対勢力である藍氏の娘の楓は、舎人の一人と密通したという罪で突然後宮を追い出されることになった。
 この頃からいつの間にか「若彌王子はたたり殺された」という噂もおさまり、「喬王子殺しの首謀者は珮氏ではないか」という嫌疑も同時になくなっていた。
 次期国王の位は突然吟から冬葵へと転がり始めたのである。
 母親を後宮から追放された吟の後ろ盾は、もはや大臣を務める祖父の桐と様々な官職に就く一族の者たちしかなくなった。今まで彼を擁立しようとしていた後宮の女たちは、皇后が菖蒲になったと見るや否や反旗を翻した。
 それでも彼が幸運だったのが、彼がトウ喬りも先に産まれた第二王子だという事実だった。慣例に従えば、王位継承者は年の上の王子から順に選ばれる。叶が本当のことを話すようにならなけれ珮くらでも策を講じて冬葵を陥れることができた。
 冬葵はそんな吟とは反対の立場である。叶の証言が得られれば国王になることができた。
叶は犯人を目撃していると、冬葵は以前からほぼ確信しているようだった。冬葵はありとあらゆる手段を講じて叶の声を戻そうと試みた。以前のように暴力を使って脅しに来ることもあれば、医師を連れてきて怪しげな薬を飲ませたりすることもあった。
 しかし、冬葵がどんなに努力をしようとも、叶の声が戻る気配はない。段々と思い通りに行叶苛々が募ってきた冬葵の仕打ちはさらに過激なものになった。そのせいで毎日叶は寝込んで過ごすことが多くなり、余計にふさぎこんだ表情をするようになった。
 そんなある日のこと。
 秋の虫たちの声を子守唄に眠りに落ちていた風眞はかすかに戸をたたく音と、聞き覚えのある声に目を覚ました。真夜中のことである。
 隣の布団で寝息をたてている棗を起こしてから、明かりをつけた。戸を開けると見覚えのある初老の男が立っている。蔚木だ。
 戸を閉じた音が聞こえたのか、叶が起きてきていた。足元がふらついている。
「このような夜更けに・・・・・・申し訳ありません。しかし人目に触れないように気をつけなければならないほど、状況は難しくなってきております」
「それで、しばらくこられなかったのですね」
「申し訳ない」
 棗の言葉に、蔚木は頭を下げた。
「お茶でもいかがですか。風眞、蔚木様のお相手をたのみますね。それから叶様に厚手の上着を出してさしあげて」
「はい」
 棗はいそいそと茶をいれる準備をはじめた。
「――後継者争いはいよいよ激化しております」
「そうですか」
 床に座した蔚木に、風眞は頷きながら叶の上着を着せかけた。争いが激化していることなど、冬葵のあせった様子を見ればわかる。
「喬様が王位をおつぎになった冬葵は、実権を王族に取り戻すために現国王が補佐としておつきになる予定でした。だからこそ少し早くはありましたが、今年に王位継承をなさろうとしたのです。しかし、喬様が亡くなられた今、そのご決断が裏目に出ましてね。今すぐ王位を継承させろと、吟王子も冬葵王子も必死なのですよ」
「・・・・・・お茶を」
 すい、と棗が湯飲みを差し出した。軽く礼を言ってから蔚木はそれを口へ運んだ。
「今は厳しい状況ですが、なんとか二人の王子とその勢力を抑えつつこのまま二年持ちこたえることができれば、少し早いですが叶様の元服式を迎えることができる。そうなれば正式に、王位を争う権利が叶様にも出てきます。そのときのために今は万全の準備を整えております」
 元服式は通常十四歳から十六歳の間くらいに行われる。元服式を終えた王子は母親のもとからひとり立ちし、東の殿舎に住まうことになっていた。王子の一人が王位を継承した後、その他の王子は貴族へと降下して官吏の道へと進むか、出家して俗世を離れるかの二択を迫られる。国王の兄弟が王位を狙って謀反を起こすことが過去にたびたび起こったためだ。ゆえに、一度国王が立ってしまえば、その他の王子には王位を継承する権利が無くなる。
「・・・・・・ということは、二年間、このまま待てということですか」
 二杯目の茶を湯飲みへと注いでいた棗は、わが子の低い声に顔を上げた。かすかだが、怒りが含まれている。
「あなたは、今、叶様がどのような目にあっているかご存じないからそんなことが言えるんです。こんな毎日が二年も続くくらいだったら、いっそのこと今すぐにでも出家でもしてしまったほうがましです」
 泣きそうな声で風眞は言った。叶はそれに同意するでもなく、否定するでもなく、ただぼんやりと目の前におかれた湯飲みの湯気を見つめている。
「・・・・・・一体何が起こっていると」
「冬葵王子が、喬様殺しの犯人の名を、どうしても叶様に言わせようと。叶様のお声がどうやっても出ないことがわかって、毎日ひどいことを・・・・・・。吟王子もたまに脅迫じみた真似をするんです。こんなにひどい目にあうのなら、国王の位なんてさっさと冬葵王子か吟王子に決まってしまえ珮いのに」
 風眞は顔をおおって泣き出した。
「そのようなことが・・・・・・」
 蔚木は大きくため息をついた。そんなことが起こっているなど、全く知らなかった。後宮には風眞たちを除いて叶の味方など一人もいない。それはわかっていたが、まさか叶に危害を加えるものがいようとは。
「・・・・・・長いことここに来ることもできず、本当に申し訳ありませんでした」
 丁重に、蔚木は頭を下げた。
「叶様に護衛をつけましょう。そうすれば、そんなひどい目にあうことも少なくなるはず」
「護衛? でも、蔚木様がそのような命を下したとなれば・・・・・・」
 棗が聞き返した。そんなことをすればたちまち蔚木の野望も暴露され、全てが無に帰す。決して、誰にも蔚木は叶の味方だなどと気づかれてはならないのだ。
 蔚木はしわの深く刻まれた顔で微笑んだ。
「ご心配なく。策を授けましょう。明日、私がここへ金蘭という一人の男を向かわせます。彼は最近軍へ入ったばかりの兵卒ですが腕は確かな男です。出身は棗殿の地元に近い山地。この男を、棗殿の遠縁の親戚ということにします」
「はい」
「親戚同士が同じ王宮に仕え、度々会いに来る。――不自然なこともありますまい」
 蔚木は笑みを浮かべた顔で言う。
「ただ、兵卒としての訓練の合間にしか来ることはできません。それでも、ここへ他人が出入りしているのを見れば王子達が毎日のようにやってくるのも止みましょう」
 確かに。どんな男か知らないが、兵卒というからには一応屈強な男なのだろう。万が一の時には助けてくれるかもしれないし、そんな男が出入りしているところを見れば冬葵や吟だって叶に暴力をふるうのをやめるかもしれない。
 その日、蔚木は金蘭がどのような男かを軽く説明した後、夜が明ける前に帰っていった。王子たちのひどい仕打ちが無くなるという保障はないが、風眞は少し救われた気持ちになっていた。
――やっぱり、蔚木様は頼れる味方だった。
 そう思える自分が嬉しかった。

 翌日、蔚木の言った通り昼過ぎ頃に男が風眞を尋ねてきた。三十を少し越えたくらいの背の高い厳つい男である。
「蔚木殿に教えていただいた。風眞というのはお主のことか」
 野太い声で男が問う。風眞は頷いて、部屋へ招き入れた。
 叶は朝から具合が悪いようで起きてこない。朝食もろくに口にしないまま寝台に横たわっている。近頃はこんな状態が珍しくなかったので、風眞は叶を起こそうとはしなかった。どちらにしろ風眞の遠縁の親戚ということになっている相手だ。叶には直接関係がない。
 男が床に胡坐をかいて座ると、風眞は古い床板がきしんだように思えた。兵卒の制服の上からでもかなり鍛えられた体であることがわかる。こんな男が出入りしていることがわかれば、確かに冬葵たちもこの部屋にやってくるのをためらうだろう。
――叶様がこわがるかもしれないな。
 お茶を用意していた風眞は、男の四角ばった厳つい顔を見てそんな風に思った。湯飲みを差し出すと、男は「かたじけない」と頭を下げた。
「それがしはカン藍と申す。風眞殿の母君のご実家と、ほど近い山の村の出身であります。村では用心棒や悪人の取り締まりなどをやっておったのだが、この度大遠征のための兵卒募集に志願し、軍に入れていただいたのでござる」
「はあ」
 根っからの軍人という喋り方に、風眞は呆気にとられていた。王宮の中で貴族とは接触があってもなかなか軍人とは話す機会がない。ぶっきらぼうな言葉には、貴族にはない実直さや誠実さがこめられているような気がした。
 突然、男が四角い顔に大きな笑みを浮かべた。
「それにしても、子供という身の上で王子の身の回りの世話をほとんど任されているとは、いやいや心底恐れ入った」
「い、いいえ・・・・・・」
「それがしにも何か手伝えることがあれば、遠慮なく言ってくだされ。事情があることは蔚木殿から窺ったが、あまりにも王子が哀れでござる」
 厳つい男だが、心根は優しいのかもしれない。金蘭の朴訥とした言葉のうちに嘘は感じられなかった。何となく風眞は嬉しくなり、口元から笑みが広がるのを感じた。
「あの」
 風眞が口を開くと、金蘭が大きな体を乗り出した。
「何でも申し付けてくだされ」
「あ、いや、そのう・・・・・・」
 少し照れたようにしてから、風眞は言った。
「金蘭さんは、母上の田舎の近くのご出身なんですよね。あの、よろしかったら、どんなところかお話を聞かせていただきたいなって・・・・・・。ぼく、あまり都を出たことがないので」
「なんと」
 金蘭は目を見開いた。それから大きく笑って、「たやすい御用でござる」と言った。
 その日兵卒の午後の訓練の時間まで、風眞はずっと金蘭の話を聞いた。金蘭が話したのはありふれた田舎の日常だった。けれども都の中でしか暮らしてきたことのない風眞にとって、幼い頃数回たずねた母の故郷の思い出にひたることは懐かしくもあり、幸せでもあった。
――こんな王宮から離れられれば。
 近頃のあまりにひどい現実から目をそむけるには丁度いい息抜きになる。風眞は、金蘭が午後の訓練へと戻っていった後も、しばらくおぼろげな母の故郷の姿を思い描きながらぼんやりとしていた。
 次の日も、その次の日も、金蘭は風眞の元へやってきた。元来真面目な男のようで、毎日決まって朝の訓練のあとに訪ねてきては、午後の訓練の時間きっちりに出て行く。堅物そうなこの男の話を聞くのを毎日風眞は楽しみに待つようになった。
 風眞には父親がいない。風眞が生まれたのは棗が王宮へ勤めるようになってからしばらくした頃のことである。子供が生まれるからには父親は必ずどこかにいるはずだが、棗は結婚をすることもなく一人で風眞を育てた。風眞も棗から父親について何一つ聞いたことはなかった。
――父親がいたら、こんな風な人かもしれない。
 金蘭と話をしながら、風眞はそんな風に思うようになった。
 毎日の小さな幸せを見つけた風眞とは裏腹に、叶の様子は日に日に悪くなっていた。部屋から出ることはほとんどなく、寝台から起き上がることさえ少しずつ減っている。ときどき起き上がると苦しそうな表情をするだけで、少し前のように唇を動かして意思を伝えようとする素振りもあまり見せなくなっていた。
叶のその様子が精神的なものなのか本当に具合が悪いのか、言葉を話さないのであまり区別がつ叶。しかしあの若い医師が亡くなったという報せを聞いて以降、むやみに医師を呼びに行くのもためらわれた。金蘭が来るようになってから、度々訪れていたときや吟も姿を見せなくなったので、そのうちに状態もよくなるだろうと風眞は棗と相談して様子を見ることにした。
 だから金蘭のこの言葉は突然なだけでなく、大きな衝撃を風眞に与えた。
「しばらく、都を離れます。南部への大遠征がはじまりますので」
 金蘭が風眞たちのもとを尋ねるようになってから、一ヶ月少しもたたないくらいだった。
 京華は大軍勢を率いて未だ統一できていない南部の地域の制圧戦に臨む。その人員の中に、金蘭たち新たに募集された兵卒たちも含まれていたのだった。
「戦なのですか」
 風眞は不安に思った。戦がどういうものなのかは知らないが、都のように安全でいられるわけがない。戦は人が死ぬ。金蘭も死ぬかもしれないのだ。金蘭が死んでしまえば叶の味方といえる人間が一人減るばかりか、毎日の他愛ない会話の楽しみすら消えてしまう。
 不安げな風眞の頭を日焼けした大きな手のひらで撫でて金蘭は笑った。
「心配はござ藍よ。某は必ず功績をあげまする。そして叶様や風眞殿、そして蔚木殿のお役に立てるようになってみせまする」
 金蘭があまりに心強く笑うので、不安などどこかへ飛んでいくような気もした。
ただ金蘭の無事を祈って送り出す。風眞は金蘭が都を出て行ったことで叶の身にふりかかる危険など、ほとんど忘れてしまっていた。

遠征軍には蔚木が軍師として参加するのはもちろん、吟も将軍の一人として行軍に加わっていた。そのことを聞いた風眞は、叶に害をなす人間が一人都を離れたことを喜んでいたが、一人あせりを抱いている人物がいた。冬葵である。
この戦において吟が目覚しい功績を残せば、王位継承者の候補が吟へと転がっていく可能性がある。現在優勢な立場にある冬葵としては、このまま一気に決着をつけてしまいたかった。
そのためには吟が遠征で功績をあげる前に、喬殺害の首謀者が藍氏であると証明するのが不可欠だった。
遠征軍が都を離れた後、冬葵は再び叶の元を訪れた。
「久しぶりだね」
 早すぎる初雪が舞い始めた秋の終わりであった。火鉢で暖をとろうとしていた風眞を押しのけて叶の寝所に足を踏み入れると、予想通り叶はおびえたような表情を浮かべた。
「そろそろ喋れるようになりたいだろう。今日は腕のいい医師を連れてきた」
 今までも何度か医師や薬師の力を借りて叶の声を取り戻そうと試みたが全て失敗に終わっていた。しかし今度は違う。
「手術をしてもらいなさい。今までこんなに努力してきても無駄だったのだから、他に方法がないだろ?」
 手術といっても確実に治るという保証はない。麻酔の技法もまだ確立されていない中で手術を行うのはほとんど地獄といってもいい苦しみを味わうことになる。大の大人ならまだしも、十を少しすぎたばかりの子供が耐えられるわけがない。
 首を横に振るわけでもなく、表情を変えるわけでもなく、叶は黒い目でじっと冬葵を見つめるだけだった。いつも訴えかけるようなこの視線に腹が立つ。追い討ちをかけるように後ろから風眞が割り込んできた。
「手術など、失敗したらどうするおつもりですか」
「失敗だって? 今以上に悪くなることはないだろ」
「でも・・・・・・」
「あまり時間がないんだよ」
 笑みを浮かべて風眞の顔を覗き込む。とくに脅かしたわけでもないのに幼い顔に恐怖の表情が浮かんだ。それに舌打ちをして叶の方を振り返った。
「今度もだめなら、そろそろ考えてもらわないと」
 壁に背中をすりよせるようにしている叶に言う。
「どんな形であれ、お前には僕が王位につくための手伝いをしてもらわなくてはね。これだけ僕が心配して、医師に取り計らったりしているわけだ。今度だめだったら、命をかけてでも僕に恩返しをするくらいの意気込みがないとね」
 血色の悪い唇が震えた。
 叶の声が戻らなかったとしても、吟のいない間に謀略をもってして藍氏を引きずり落とすという計画がすでに進み始めていた。それは、王子の一人である叶を殺し、その罪を藍氏に着せかけること。吟が王宮にいなければ、それほど難しいことではない。
喬殺害の犯人を目撃している可能性のある叶を殺したとすれば、藍氏が喬殺しの首謀者であるという証拠にもなる。
「とりあえずお前の声が戻ることを祈るよ。一応弟の一人でもあるから、命をかけられて死なれたら不憫に思うしね」
 そう言って冬葵はくすくす笑った。
 部屋を出て行くときに後ろで風眞がすすり泣いているのが聞こえてきた。冬葵にとっては叶がどうなろうとどうでもよかった。生喬うが死のうが、声が戻ろうが戻るまいが、彼にとっては自分が王位を継承することがすべてだった。母親が違えど叶が自分の弟であるなどという感覚など元より持ち合わせていない。
ただの赤の他人の子供。それが自分のために利用できるか否か。冬葵は身の回りの全ての人間や物事を、そういった物差しでしかはかることができなかった。自分のために利用できないものなら全く興味をしめさない。喬を殺された瞬間を、叶が目撃していなければこんなにも執着することはなかっただろう。

 身分の低い使いの一人に金貨を握らせ、棗は行き先を告げた。くれぐれも口外せぬように念を押してから、車を出す。布につつんだ荷物を抱えている我が子と身を小さくしている叶とを見比べてため息をついた。
「冬葵王子に叶様が殺されてしまう」
 我が子が泣きついてきたのはつい先日のことだった。
 手術をしろという命令と、それでも声が戻らなかった場合は覚悟しろという脅迫。
王位継承争いは激化の一路をたどっていたが、まさかその争いで叶の生死に危険が及ぶとは誰が想像しただろう。
棗はある一大決断をした。叶を王宮から逃がすことである。元服前の王子が行方不明となれば大事件であり、棗の責任も問われることは必死だが、叶が争いに巻き込まれて命を落とすよりはまだいい。
風眞に持たせた荷物の中には祖母にあてた手紙が入っている。実家を離れて山で隠居生活を営んでいる祖母の草庵。そこならばひ孫を快く受け入れてくれるはずだし、叶をこっそりどこかの寺へ預けることも可能だった。
とりあえず喬の墓参りと称して都を出る。陵墓よりもさらに北東へいったあたりで車を止め、叶と風眞を降ろす。その後は徒歩だが子供の足で二日歩けば祖母の草庵にたどり着けた。
「くれぐれも、道中気をつけなさいね。誰かに何か聞かれても、母に頼まれて祖母の家を訪ねると言うのですよ。叶様のことも、兄弟ということになさい」
「はい」
 うなずく我が子の横を見ると、すっかりやせ衰えてしまった叶がうつむいていた。風眞の昔の服を着ていて顔色も悪く、どう見ても王子の一人だとは思えない。
「叶様の様子を見ながら歩くのですよ。必要なものがあれば、渡したお金で買いなさい。それからおばあさまにもよろしく伝えてくださいね」
「はい。大丈夫です」
 気丈に答えてから、風眞は逆に問い返した。
「母さまは、大丈夫なのですか」
「え」
「だって、叶様がいなくなったということになれば、母さまの責任が問われるのではないですか」
 逆に自分がわが子に心配されていると知って、棗は少し目に涙が浮かんだ。
「私は大丈夫ですよ。心配いりません。お暇をもらうことができたら、私もおばあさまのところへすぐに行きます。そうしたら、一緒に田舎で暮らしましょうね」
「はい」
 言いながら、そんな日はこないような気がしていた。
 王子が行方知れずになった責任は重大、何かしらの罰を受けることになる。運良く都を追い出されるだけですんだとしても、その後実家に帰るわけにもい叶。祖母の草庵で一緒に暮らしていくにはあまりにも生活が苦しすぎる。行く先に待っているのはつらく貧しい日々ばかりだ。
「早く行きなさい。すぐに気づかれてしまうと厄介だから」
 目頭が熱くなるのを感じながら、棗は息子の背を押した。風眞はうなずいて、それからかしこまって頭を下げた。
「それでは母さま、行ってまいります。母さまもお元気で。必ず、待ってますから」
 気丈な我が子の姿を見ながら、棗は頷くことしかできなかった。声を出してしまえば必死でこらえている涙が溢れ出てしまいそうで、そうなればきっと風眞も旅立ちづらくなる。精一杯の笑顔を顔にたたえて、棗は風眞を送り出した。


 叶の手を握って風眞は歩き続けた。道中様々な大人に声をかけられたが、母親の遣いで田舎まで行くのだというと、えらい兄弟だと誉められるくらいだった。元気のない叶の様子を心配して、たまに菓子をくれたりする大人さえいる。一泊した宿では大幅に料金をまけてくれた。
 母からもらった地図を片手に、道をたずねながら歩く。どうやらそんなに遠くはないようだった。しかし曾祖母の草庵は山の中。山に詳しい人物に聞くには、山道は迷いやすいということである。それでも同行だけは断って、風眞は叶と山へ入った。
 木々の中で時間の感覚を失っていると、あっというまにあたりが暗くなる。風眞はたいまつに灯りをつけて先へ進んだ。やがて、真っ暗な闇の中にぽつんと灯りが見えてきた。曾祖母の草庵である。
「すみません」
 声をかけたが、反応がない。何度も戸をたたいてみる。
「すみません。お婆さま、風眞です。母棗の遣いで参りました」
 中で物音がして、戸が少しだけ開く。
「こんな時間に何用でしょうか」
「お婆さま」
 老婆は目を丸くして驚いた。
「あんれまあ、ひ孫の姿をした子鬼かね」
「いいえ、お婆さま」
 風眞は荷物から棗の手紙を取り出した。老婆はしわだらけの手でそれを受け取ると、灯りで照らしながらそれを読んだ。やがてゆっくり顔を上げると、
「とにかく疲れたろう。中へお入り。そちらの方もご一緒にどうぞ。粗末な場所じゃが」
と二人を招きいれた。
 外観に比べ、中はきれいにしてあった。老婆が毎日きちんと生活している様子がうかがえる。老婆の年齢はおそらく六十以上のはずだが、思いのほか足取りもしっかりしていて、二人に暖かい山菜汁を作ってくれた。
「さあ、たんとおあがり。たくさんあるからね」
 老婆は手紙の内容について風眞に何か聞こうとはしなかった。「とにかくゆっくりすれ珮い」と言ってくれる老婆の優しさに、風眞は胸が熱くなった。
 山菜汁をすすっていると涙が出てきて、せっかくの山菜汁が塩からくなった気がした。あんまり涙が出るので椀を置くと、いつの間にか老婆がそばにきて背中を撫でてくれた。
 風眞が老婆と会ったのはほんの二回。それも一回は風眞が生まれたばかりのときだ。二回目は棗の母が亡くなった葬儀のときで、それは三年ほど前のことだった。そのときは喬も生きていたし、叶も普通の子供だった。まさか三年でこんなことになろうとは。
 それから風眞と叶は老婆と一緒に毎日を過ごした。時期がそろそろ冬だったので、冬を越える準備に毎日追われた。働き手が二人増えたと老婆は喜んでくれた。
 老婆は叶に、毎日力がつくという薬草を煎じた茶を飲ませてくれた。そのお陰か都から離れたせいか、叶は王宮にいた頃に比べて少し元気そうなそぶりを見せはじめた。一緒に山菜をとりに行ったり釣りをしたり。昔一緒に遊んでいた頃と全く同じと言うわけには行叶が、少しずつ叶は元の明るさを取り戻し始めていたようだった。
 ある日のこと。一人で薪を作っている風眞の元へ老婆がやってきた。野草を入れた茶を手にしている。
「風眞。こっちへきなさい。お茶でも飲んで休みましょう」
「はい」
 寒い空気にさらされて赤くなった頬で笑いながら風眞は老婆の腰掛ける大きな石の横に座った。湯のみを手にとるとほっとするほど暖かかった。
「叶様のことだけどね」
 老婆は話し出した。
「隣の山にあるお寺に預かってもらうのが一番いいだろうね。お寺のお坊さんにもこの間じいさまのお参りのときに聞いてみたんだけど、大丈夫だそうだよ」
「やっぱり、お寺に入るのが安全なのかな」
 二度と王宮に連れ戻されないためには、俗世と関係を完全に断ち切る必要がある。王家と全く関係のない寺へ入れば、その心配は無用だ。
「私の草庵だって、見つかるかもしれないからね。お寺に入ってもらうのが一番安全なのさ。最近は少し元気になったようだしね」
「はい」
 あまり長いこと曾祖母に迷惑をかけることはできない。食い扶持が二人も増えたのだ。労働力が増えたとはいえ、相当な負担がかかっていることは間違いない。
「では、ぼくから叶様にお話します。寺へ行くのはいつでも構わないのですか」
「そうね。構わないだろうよ」
「じゃあ、ぼくもすぐに準備します」
 立ち上がろうとした風眞に、老婆はぎょっとしたような表情を見せた。
「準備って、まさかお前も行くっていうのかい」
「もちろんですよ。叶様の行くところなら、ぼくはどこへだってお供します」
 老婆は小さくため息をついた。
「寺へ入るっていうことが、どういうことかわかってるのかい。お前はまだ小さい。あのお方と人生の全てを共にしなければならない理由なんてないじゃないか」
 来年やっと風眞は十二歳になるばかり。老婆の言うことは最もだった。田舎の生活には馴染めるだろうし、何とか一人で身を立てていこうとすればできないこともない。
棗の実家は元々身分の低い地方貴族だったが、棗の乳母抜擢により身分があがった。支配している土地も増えたし、その分裕福になっている。老婆は棗の母方の祖母だが、かわいいひ孫のために本家に頭を下げるくらいのことは考えていた。
風眞は真面目でしっかりした良い子だった。小さな頃から王宮で暮らしてきたわけだから、教養も高いはず。出家させてしまえば開けているかもしれない将来をも奪うことになる。老婆はできることなら、叶は寺に入れてこのひ孫だけは手元に置いておきたかった。
「叶様は本当に一人ぼっちなんです」
 風眞は言った。
「叶様に関わる人がみんないなくなってしまうから。でも、ぼくは生まれたときから叶様と一緒でした。ぼくだけは、いつでも叶様と一緒にいないとだめなんです」
 真剣な表情で語るひ孫を見ながら、どうしてこの子が、と老婆は思った。叶がどんなに不幸な目にあってきたか、風眞からは色々な話を聞いていた。それでも、と思う。叶に付き添って守ってやれる人間は他にいなかったのだろうか。老婆には小さな子供が二人よりそって震えているようにしか思えなかった。必死に叶の盾になろうと、風眞は大人に負けないように強がって見せているようにしか思えない。妙に大人びたことを言う風眞を見るたびに、どうしてこんな子供が、と悲しくなる。
今だって同じだ。小さな子供なのに、自分の人生を顧みようとしない。老婆はそんな風眞が不憫でならなかった。だから、こう言ってしまった。
「わかったよ。でもね、そんなに急がなくても、こんな山奥の草庵にいるなんてわかるはずないさ。そうだろう」
 しわだらけの顔をくしゃくしゃにして微笑む老婆を見て、風眞は首をかしげる。
「でも、ぼくたちがいると、お婆さまに迷惑がかかっているのではないですか」
 子供らしからぬ気を使われて、老婆は少し心が痛んだ。子供はそんな気を使うべきではない。もう一度笑顔を作って、風眞の頭を撫でる。
「そんなこと、気にしないでいいんだよ。大丈夫。二人にはきちんと毎日手伝いをしてもらうからね。だから、とにかくゆっくりしなさい」
「はい」
 老婆の笑顔に安堵したのか、再び風眞の顔に笑顔が戻った。
 老婆は風眞と叶の両方を、自分の孫のように可愛がった。叶は少しずつ元気を取り戻し、昔のように笑顔を見せることも多くなった。
二人は老婆のかわりに水汲みや山菜取り、そして時には町へのお遣いに出かけた。老婆は毎日暖かい食事を用意してくれる。そんな毎日を過ごしながら、早く母親がこの場所を訪ねてこないかと心待ちにしていた。
老婆と子供二人という少し奇妙な共同生活だったが、風眞は始めて普通の家庭を味わっているような幸せを感じていた。
――このままこんな生活が続け珮いのに。
 そうして母親を待ちながら、二年という歳月が流れた。


 幸福と思える生活は突然打ち破られる。王宮にいる間も何度か経験していたが、二年も経ってまさかあの環境に引きずり戻されるなど誰が想像しただろう。兵卒を数人連れた官吏が草庵に現れたとき、叶と風眞は水汲みから帰ってきたところだった。
 叶の表情が突然こわばる。二年の間に忘れかけていた恐怖だ。長い時間のんびりと暮らしていたせいで風眞は大人と変わらないくらい背が伸びたし、叶も昔に比べたら随分と成長している。過去のことは、ただの悪夢だったと言えるくらいの歳月が流れたような気がしていた。
「叶様、お探し申し上げました」
 歯がかちかちとなるほど横で叶が震え上がっているのがわかる。何事かと老婆も草庵から出てきて目を丸くしていた。
「都では皆ずっと叶様を探しておったのですよ。さあ、帰りましょう」
 風眞は叶をかばうように前へ出た。
「叶様はご病気ゆえ、自ら望まれてこの地で養生しておられます。誰も叶様のご病気などに関心を持たず、都では病状が悪化するばかりでした。二年もなって、今更都に戻れと一体どなたが仰るのですか」
「お前は、あの女の子供か」
 官吏はフン、と鼻で笑った。
「叶様の療養だと? このような僻地で? 療養が必要であれば正式な手段をとって王家の別宅に住まうこともできたろうに。お前たちのしたことは、ただの誘拐だ」
 思わず唇を噛んだ。あの状況ではどんな手段を使っても都を出ることはかなわなかった。だからこんな方法しかなかったのに。
「王子の世話を任されていることをいいことに、王子を誘拐し、後から王家に害をなすつもりだったのだろう」
「違う」
「お前の母親も一年前に裁かれて、処刑された。最後の最後まで叶様の居場所を吐叶強情な女だったがな」
 驚きのあまり、風眞は声を失った。
――処刑。
 罰は受けるだろうと思っていたが、まさか殺されるとは。
――叶様に関わる人は、みんないなくなってしまう。
 再び、そんな考えが頭をよぎった。それでもまさか、自分の母親が、と思う。あのときはそんな大事になるとは思っていなかった。行方不明になったと上手く説明すれば、職を失うだけで済むはずだったのだ。
――誰か、王子や貴族の陰謀なのか。
 喬を含め彼らに殺された人間は何人もいる。女房の一人を殺すなど何のことはなかっただろう。思うと、腹が立ってきた。
「叶様は、まだお戻りになれません」
 怒りをこめて言うと、今度は後ろの兵卒たちが剣を構えた。
「お前もその罪を認めないというのなら、一族揃ってのはかりごととみなし、一族もろとも処罰するがどうか」
 さすがにその言葉には風眞も身をすくめた。老婆は震え上がって地面にしゃがみこんでいる。
 ぽん、と風眞の肩をたたくものがいた。叶が前へ出る。
「叶様・・・・・・」
 黙ってうなずく表情は、以前王宮にいた頃に見せた無表情に戻っていた。


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