二章

 ぴちゃり、と音がする。
 天井のどこかから滴が落ちているのだろう。
 ぼんやりと上を見上げると、格子のついた窓が見えた。
 窓の外は真っ白で、冷たい風が時折降りてくる。寒さにも大分慣れた。
 格子の向こうの廊下から、ひたひたと足音が近づいてくる。寒いことを訴えようにも声が出ない。
 叶は声を失っていた。

「叶様でいらっしゃいますか」
 格子の向こうから、白髪の、それもかなり高齢の男が声をかけてきた。黙って叶は頷く。他に意思表示をする手立ては無かった。
「疑惑が晴れましたよ」
 男が言うと、叶の表情が明るくなった。そう、兄の喬が殺されてから彼は容疑者とされて牢獄に閉じ込められていたのだった。
「叶様が殺害する理由が見当たりませんでしたからね、ずっと不思議だったのです。けれども今日の会議で結論が出ました。叶様は喬様を殺害することなどできないと」
 あの場を目撃していたのは叶と風眞だけだったが、肝心の叶は声を失っていて、風眞は犯人の名を言わない。結局犯人が誰なのかは結論が出なかったが、叶ではないということで意見は一致した。
「お寒かったでしょう。今、出してさしあげましょう」
 叶は男の顔を見ながら首をかしげる。こんな男の知り合いがいただろうか。年のころは六十近いだろう。着ているものからかなりの高官であることがわかる。
鍵を開けながら、男は笑った。
「叶様は私をご存知ないでしょうが、私は昔から叶様を存じ上げておりますよ。私は喬様によくしていただいておりましたから、叶様のお話はよく聞いておりました」
 男が扉を開ける。
「私は軍師を務めている、蔚木というものでございます」
 叶は眼を大きくした。蔚木といえば、大変有名な軍師だった。天才とも言われている。確かに、死んだ兄の喬からも彼の功績を聞いていた。
 蔚木は笑う。
「叶様を貶め、喬様を殺害した者が誰なのか、たとえ叶様のお声が戻らずとも必ず私が探し出しましょう。そして、必ずや喬様の無念を晴らしてさしあげます」
 皺の多い手で肩を掴まれた叶は、ひどく蔚木が心強い味方のように思えた。

 牢獄を出ることのできた叶は数週間寝込んだ。寒い牢獄で一ヶ月近くも放置されたため、弱い体は悲鳴をあげるようにして高熱を出した。以前のように医師は叶のもとへ来なかったが、かわりに女官から薬だけが届けられた。
以前紫苑や素馨と楽しく過ごした殿舎はすでに他の者が住んでいて、叶には端のほうにある暗い部屋があてがわれた。叶の世話をするものも棗と風眞の二人しかいない。
「叶様」
 眼を覚ました叶に風眞が声をかける。
「お加減はいかがですか」
 返事は無い。かわりに首が縦に振られた。
「今、お茶でもお持ちしますね。ああ、母は今外へ雑用に呼ばれていて、いないのです」
 風眞の母、棗は近頃女御たちに雑用を頼まれることが多くなった。叶一人の世話係に二人はいらないだろう、ということらしい。それが叶に対する女御たちの嫌がらせなのだろうと風眞はちゃんと理解していた。
「寒くないですか? 今、火をいれますね」
 言いながら、風眞は消えかけていた火鉢に炭をいれる。振り返ると、寝台の上で叶が宙を見つめていた。まるで自分は独り言を言っているようだと風眞は思った。
 湯をわかし、お茶をいれて叶に手渡す。叶は暖かな湯呑みを受け取って、しばらく立ち昇る湯気を眺めていた。
「しかし、寒いですね。雪がやまないんですよ。この間雪かきをしたら、私の胸あたりにまで積もっていて」
 言うと、叶は窓の外へ視線を移した。その横顔が依然とは比べ物にならないほど暗いもので、風眞は悲しくなった。
「――すみませんでした」
 叶が振り返る。
「私がきちんと、喬様を殺害した方の名を――申し上げることができればこんなことには」
 風眞は唇を噛んだ。
 叶が声を失ったとわかって、証人として風眞は会議に呼ばれた。風眞は叶が犯人ではない、ということを主張したが、犯人は見なかった、と言った。
「あの場に、あの方がいらっしゃったんです」
 叶が眼を大きくする。
「――すみませんでした」
 風眞は泣いて頭を下げた。
 とても言えなかった。国王の前で、王子を殺したのがその弟だなどと。
 言っても風眞などの発言はすぐに撤回されるだろう。ただの下働きなのだから。
 それどころか不穏当な発言をしたら、自分だけでなく棗も、そして叶も罰を受けるかもしれない。
 風眞は怖くて言えなかった。
 ふと、頭を撫でるようにされて、風眞は顔を上げた。
 叶は首を横に振っていた。
 声は聞こえなかったが、唇が、お前のせいではない、と言っていた。
「すみませんでした」
 もう一度謝ると、仕方ないように笑って、叶は首を縦に振った。

 夜になっても、棗は帰らなかった。雪と風が吹きすさぶ音を聞きながら、叶と風眞は身を寄せ合うようにして時々音を立てる火鉢を見つめていた。
「――さま」
 風の音にまぎれて、何か声が聞こえた。
「叶様」
 棗の声ではない。不審に思って風眞が戸口の隙間から外を覗く。
「叶様。――蔚木でございます」
 振り返ると、叶が立ち上がっていた。どうやら叶が知っている相手のようなので、風眞は戸口を開ける。すぐに刺すような冷たい空気が雪とともに入り込んできた。
「このような時間に、失礼いたします」
 初老の男はあちこちに白いものが見える頭を下げた。
「あなたは」
「軍師を務めておる蔚木と申します」
 風眞でさえ、蔚木の名は知っていた。京華が西へと領土を広げることができたのは、ほとんど蔚木の天才的な策によるところが大きい。国王は蔚木に全幅の信頼を置き、その名は英雄としてたたえられていた。
「私がここへ来たことは内密にしていただきたい」
 蔚木は言った。
「朝廷は王位継承者をどの王子にするかで揉めております。喬様のもとでまとまっていた臣下が派閥にわかれ、不穏な空気が漂っております。私がここへ来たことが知られれば、おそらくそのような中に波風を立てることとなりましょう。」
「わかりました。それでは今日はどのような用件でいらしたのですか?」
 風眞が尋ねる。
「現在、吟王子と冬葵王子の間で王位継承権が争われております。しかし、このどちらの王子が王になられたとしても、京華はおそらく――滅びるでしょう。これはあくまで私の考えですが」
「・・・・・・」
「私は長年国王に仕えてきました。喬様の下で天下が統一されるのをずっと夢見てきました。しかし、現在王位継承権を争われている吟王子は軍の将としては大変優秀な方ですが、政には疎い。冬葵王子は非常に聡明で政にも精通していらっしゃるが、民への情が無い。残りの二人の王子などは論外。このような状況では、京華はとても天下を統一などできるはずもありません」
「何故ここでそのようなお話を・・・・・・」
「単刀直入に申しましょう。私は、叶様こそ次の王にふさわしい方だと思っておるのです」
「・・・・・・!」
 蔚木の発言に、思わず風眞は辺りをうかがった。このような発言を誰かに聞かれでもすれば、おそらくただではすまない。
「しかし・・・・・・」
「順当にいけば、叶様に王位継承が行われることはまずありえないでしょう。おそらく、吟王子か冬葵王子。彼らに何かあって王位が継承されることがなくても、冬葵王子の実弟の若彌王子。それより下の雅葵王子と叶様の可能性は無いに等しい。しかし国の未来を分けるとなれば、話は別です」
「別、とは?」
「私の知略でもって、叶様を玉座に座っていただけるようにいたします」
 風眞は叶を見た。別段、叶には何の表情も浮かんでいなかった。ただ黙って蔚木を見据えている。
「喬様の殺害に、派閥や王子に関わる一族の誰かが絡んでいることはおそらく確かでしょう。王宮ではよくあること。しかし、そのようなことで国が滅んでは困るのです。我々はずっと、京華が天下を取ることを夢見て今まで努力を重ねてきたのですから」
 蔚木は叶の前に叩頭した。
「どうか、叶様。私たちに力をお貸しください。叶様がこの国を背負ってくださるのであれば、私はいかなる手段を用いてでも貴方の玉座を手に入れてご覧にいれます」
 たかだか十歳の子供の前に京華の天才軍師が頭を下げている。風眞にはそれが何故だか異様な光景に思えた。こんな十歳の子供に頭を下げねばならないほど、京華の未来は不安にまみれているのであろうか。そんなにも残りの王子たちは愚者なのだろうか。
 不安にかられながら、風眞は叶を見る。
 ゆっくりと、叶が頷くのが見えた。
 その日は、ほとんどそれだけのやり取りを終えて蔚木は出て行った。帰り際に風眞は蔚木の後を追いかけた。
「ひとつ、聞いてもいいですか」
「何でしょう」
「叶様のお声が、いつになっても戻らなかったときは、どうするんですか」
 叶が声を失ったのは、急激な精神的苦痛のためだと医師は言った。時がたて珮ずれは治る、ということだったが風眞には不安でならなかった。もしも叶が玉座につくことができて、それでも叶の声が戻らなかったら。声の無い国王が果たして国を治めることができるのだろうか。
「その時は、お前が叶様の声のかわりになってさしあげなさい」
「私が・・・・・・」
「よいですか。絶対に叶様のおそばを離れてはなりません。この不安定な情勢の中、いつ何時危険が降りかかるかわかりませんからね。叶様を、頼みましたよ」
「・・・・・・はい」
 蔚木は笑って風眞の頭を撫でると、雪が吹きすさぶ中、闇へと消えていった。
 その後姿を見ながら風眞は、自分の肩にずっしりと重い役目がのしかかっているのを感じていた。

 毎日棗は朝早くから女御たちに呼び出され、夜遅くまで帰ってこなかった。日が昇るずっと前に棗は叶と風眞の朝の食事を用意して出て行く。風眞はその母親の後姿を見送ってから、その日の雑用をこなすのだった。
 夜になると毎日のように蔚木がやってきて、叶にこっそり学問を教える。内容は帝王学や兵法、政治や歴史についてと幅広かった。前の叶の教師は、喬が亡くなってからぱったりこなくなっていて、昼間はもっぱら叶は一人で蔚木から借り受けた本を読んでいた。その本の数は日に日に増えていって、せまい房の中はまるで図書館のようになっていった。
 ある日のこと、声もかけずに乱暴に部屋の戸が開いた。
「よう」
 入ってきたのは、吟だった。思わず風眞は本を整理していた手を止め、叶の前に出る。
「こんな狭いところによくいるなあ。倉庫かと思ったぜ」
 言いながら、吟は部屋を見回す。
「何か、ご用でしょうか」
 聞くのはためらわれたが、叶が言葉を発せられない以上、風眞が聞くし叶。吟は風眞を押しのけて、座っている叶の胸倉をつかんだ。
「おい、お前、本当に声が出ないのか」
 叶は首を縦に振った。唇が少し震えている。おびえているようだった。
「おやめください」
 風眞が駆け寄る。
「黙れ。とりあえず今日は忠告しにきてやったんだ。お前がどんなに勉強しようが、俺が次の国王になる以上、お前は官職につくことはできない。声も出ない、ましてや病弱で早死にするんじゃもってのほかだ」
 叶の眼が見開かれる。
「なんてことを・・・・・・!」
「お前も知らないのか? こいつは、二十歳まで生きられないって、医師が言ったんだよ。東の塔の占い師じゃない。医師がだ。妙な連中が何をトチ狂ったか、次王の候補者としてお前の名前を加えようとしているらしいが、妙な気を起こすんじゃないぞ。二十歳まで、生きられなくなるかもしれんからな」
 言って、吟は叶を突き落とした。にやり、と口元をゆがめて笑う。
「お前だって、命があるのは誰のおかげかよく覚えておけ。お前ら、生きていられるだけ幸せだと思えよ」
 吟はそう言って部屋を出て行った。
 風眞は床に突き落とされた叶の元へ駆け寄る。叶は眼を見開いたまま、吟の出て行ったほうを見ていた。かすかに体が震えている。
「叶様、気になさらなくていいんですよ。二十歳までも生きられないなんて、そんなこと医師が言うわけがないじゃないですか。きっとだれかが妙な噂を流しているだけです」
 言いながら、風眞も震えていた。
 叶が長く生きられない。そんな話は風眞もどこかで聞いたことがある。吟のようにはっ桐と言うものはなかったが。
 叶は早く死ぬ子だから、たとえ王の子といえど、厚遇されない。教育もきちんと受けることが無い。そんな噂を風眞は聞いた。叶が虐げられるのは身分のせいだけでない、と。
 けれども目の前の叶は病弱とは言えど生きているし、あの蔚木も叶に期待している。叶がそんな風に本当に死んでしまうわけがない、と風眞は思った。
「・・・・・・」
 何かを言おうとして、叶は立ち上がった。
 唇の動きを読む。風眞は叶が唇を動かすだけで、何を言おうとしているのか大体わかるようになっていた。
――皇后に会いたい。
 叶はそう言っていた。
 皇后といえば、喬の死に精神的な衝撃を受け、病の床に臥せっている。以来、外部の人間が面会できたためしがない。
「叶様、きっと無理ですよ」
――確かめたいことがある。
 叶はそう言って立ち上がった。

 皇后が住まう奥の殿舎へと向かう。紫苑と素馨が出家したため、皇后の血のつながるものは誰一人とし後宮にはいない。喬殺害の報告を聞いた後、皇后は心を病んでしまい、国王ですら面会を拒絶するという。誰も訪ねるもののいない殿舎の奥にいる皇后に、叶は何を聞こうというのだろうか。
 ふと、楽の調べが聞こえてきた。女官たちの笑い声も。
 きっとどこかの女官や女房たちが妃の誰かを囲んで遊んでいるのだろう、と風眞は思った。そのまま黒光りのする廊下を歩いていると、楽の調べが大きくなり、そこへ笛の音が重なった。
 ふと叶の足が止まる。
 視線の先を見やると、雪の積もった庭に向かって笛を吹く一人の少年がいた。その少年の後ろにはたくさんの女房が控えている。御簾は開け放たれ、暖かそうな部屋の様子がうかがえた。
 風眞は楽のことはよくわからなかったが、とても綺麗な笛の音だと思った。
「――!」
 笛の少年が叶に気づく。
「叶!」
 少年の声は叶とあまりかわらない子供のものだった。
「どうして、兄さまを殺したんだよ!」
 少年が叶へ近づいてくる。そこではじめて、風眞は少年が叶のひとつ上の王子、雅葵であることに気づいた。
 王子たちの中でも一番素直で玉のように可愛らしいこと、そしてその天性の楽の才能は王宮でも有名だった。そして彼は、その才を喜ぶ多くの女御たちにいつも囲まれ、可愛がられていた。そうして甘やかされているせいか、雅葵は国事には一切興味を示さず、勉学においてはすべてを投げ出して全く手をつけようとしなかった。雅葵が叶とは別の意味で王位を継ぐことはありえない、といわれることの所以である。
「お前が兄さまを殺したから、ぼくも世継ぎになるための勉強をしないといけなくなっちゃったじゃないか」
 この王子は、叶が喬を殺したと頭から信じ込んでいるらしかった。
「いえ、叶様は殺したりなどなさっておりません」
「下男は黙れ! ぼくに口を利いていいような身分ではないだろ」
 風眞は唇を噛んだ。自分が言わなければ、叶は何も言うことができない。けれども下働きの身では許しも得ず王族に口を利く権利など本来はないのだ。
「兄さまを殺したから、たたられて声が出なくなったんだろ。お前なんか、はやく死んじゃえ珮いんだ!」
 そう言って手に持った横笛で雅葵は叶を思い切り打った。打たれた左肩をおさえて叶がうずくまる。いきなりのことに、風眞は驚いて声をあげた。
「おやめください。なんてことを・・・・・・!」
「黙れ! こんな卑しいやつがぼくの義弟だってだけでもむかつくのに! 兄さまを殺したなんて!」
 雅葵は何度も横笛を振り上げ、叶を打ちつけた。そこへ、数人の女房が駆け寄ってくる。
「雅葵様!」
「王子!」
 女房たちの声に雅葵は打つのをやめた。
「おやめくださいまし。仮にも王子たるお方がそのような真似をなさってはなりませぬ。それにその笛も泣いておりますよ」
「そうですよ。本当にそこの方が喬様殺しの犯人なら、雅葵様が近寄るだけでも危険でございます。ささ、はよう戻られませ」
 女房たちに促されながら雅葵は口をとがらせた。
「あいつにできたんだったらぼくにもできると思うんだ。でも、なかなか人って死なないんだねえ」
「まあ」
 何故か女房たちは笑いながら雅葵と共に部屋へと帰っていく。その様子を唖然としながら眺め、風眞は叶の横に膝をついた。
「大丈夫・・・・・・ですか」
 叶はうなずいて顔をあげた。泣いているわけでも痛がるわけでもなかった。とりあえず頭部に傷のないことを確認して、風眞は叶の手を引いた。――あんなことが起こりえるなんて。
 風眞は蔚木の言葉を思い出した。降りかかるあらゆる災難から叶を守らなければならない。
――ただの下働きだからって、黙っていてはいけない。
 叶の手を引きながら、風眞は決意を固めた。

 皇后に仕えている女房に叶からの面会の申し込みを伝えると、何故か承諾の返事が返ってきた。
 病の床に臥している皇后の代わりに、現在は妃として次の階級に位置する菖蒲冬葵王子と若彌王子の母親である――が現在後宮を統べている。高級官吏を次々と輩出している有力貴族の珮氏一族の娘である。気位が高く王子の養育には全く口を出すことはなかったが、冬葵を国王にすることには固執していた。
冬葵擁立派の頭として一族、後宮の者、そして貴族たちと手を組み、今や菖蒲は後継者に関する論議では大きな影響力を持つようになっていた。
 御簾の向こうに二つの陰が現れた。皇后と菖蒲である。
「兄殺しの疑いを晴らしてやったというのに、病の皇后へ何か御用かえ」
 菖蒲の高い声が御簾の向こうから聞こえてきた。
 風眞は叶から半歩下がった位置に座り、彼の顔色を見る。
――ぼくが、本当に早く死んでしまう病気なのか、聞いて。
 叶はそう口を動かした。
 風眞は床に頭をすりつけるようにしながら、皇后と菖蒲に問いかけた。
「叶様のお声が出ないため、恐れながら私から申し上げます。叶様は、ご自身のご病気についてお知りになりたいそうでございます」
 この場で口を利けるような身分ではない。風眞の声は震えていた。
「ほほ、口がきけないというのは本当のことなのじゃな」
 菖蒲はころころと笑った。隣に座する皇后は一言も発さない。
「自分の病のこともよく知らないのかえ」
 そう言ってさらに菖蒲は笑う。床に額をすりつけている風眞には、叶がどんな表情をしているかは全くわからなかった。
「どんな病かなど、知ってどうするのじゃ。寿命などは天が決めること。それにお前はその生涯でなすべきこともなかろうに」
――違う。
 唇をかんで、風眞は少しだけ顔を上げた。叶が何か言うことがあるかと思ったからだ。しかし、叶が動く様子はない。
「あ・・・・・・」
 御簾の向こうから、小さく声が聞こえた。皇后が身じろぎする。
「・・・・・・喬・・・・・・」
 よろめきながら、皇后が立ち上がるのがわかった。あわてたように菖蒲が声をかける。
「皇后!」
「喬・・・・・・」
 御簾を持ち上げて、皇后が急に飛び出してき瀧らびやかな衣は以前のままだが、ほとんど白くなった髪と、異常にこけた頬と土気色の肌がまるで別人のようだった。
 長い衣の裾を引きずりながら、前のめりに皇后は走る。
「喬・・・・・・喬・・・・・・」
 うわごとのように呟きながら、皇后はほとんど骨だけになった指を叶へと伸ばす。
「皇后!」
 御簾の向こうからカン藍が金切り声をあげる。
 皇后は痩せた手で、叶を抱きしめた。
「喬・・・・・どこへ行っていたの」
 そうして叶の顔を見つめると、目に涙を浮かべた。
「・・・・・・喬じゃない・・・・・・」
 叶の肩をつかみながら、皇后は涙をこぼして首を振った。
「私の喬はどこへ・・・・・・?」
 叶が何か答えかけようとしたときに、後ろから大きな声がした。
「誰か! 皇后を連れ戻してお薬をさしあげるのじゃ! はよう!」
 菖蒲の声に応じて、数人の女房が駆け寄る。まるで罪人を捕らえるように腕をとり、その体を引きずってゆく。
「やめて! 私の喬を返して!」
 白くなった髪を振り乱すようにして皇后は叫んだ。ずりずりと引きずられて皇后は御簾の奥へと連れ去られていく。奥の間が閉まる前に、小さく「たすけて」と声が聞こえた。
 あまりのことに唖然としていると、御簾の向こうで立ち上がった菖蒲がこちらへ向き直った。扇で口元を隠して菖蒲は二人に帰るように告げた。
「皇后はご病気じゃ。お会いできただけでもよかったろう。そなたが病気であって長らえないとしてもそれは天命じゃ。そうであっても、この国には何の関係もないがの」
 ほほ、と笑い声を残して菖蒲も奥へと消えた。
 叶は据えた目でその方向を睨みつけていた。

 部屋に戻り、叶の衣を脱がせると二、三箇所の部分が青くあざのようになっていた。雅葵に打たれたその部分に冷やした布をあてながら風眞は先ほどの皇后の様子を思い浮かべた。
 賢く立派な皇后だと周囲から評価されていた皇后。けれどもあの様子はただ事ではなかった。最愛の息子を失った心痛で、母親というものはあのようになってしまうのだろうか。だとすれば、最愛の母と義兄を亡くした叶は。
 そう思って叶の顔を見上げると、叶は何か言いたげに口を開いた。
――皇后がおかしい。
「喬様を亡くしてしまった心痛で心の病を患っていらっしゃるのですから、昔の姿と違うのはきっと当然なのですよ」
――でも。
 叶は首を振った。
――あの方は、立派な方だった。ぼくのことだって本当ならきちんと覚えているはずなのに。
 確かに、皇后は叶をはじめ喬だと思っていた。けれども途中で気づき、それでも叶が誰なのかよくわかっていないようだった。
「心の病にかかると、そんな風になってしまうのでしょうか」
 風眞が言うと、叶は首を横に振った。
――違う。菖蒲さまが・・・・・・
 そう口を動かし、叶は首をかしげた。
「まさか、そんなわけがありません」
 まるで罪人を捕らえるように皇后を連れ戻すよう命じた菖蒲。どう見ても皇后の「看病」の指示をしているのは菖蒲に見えたが、第一出身家も全く違う菖蒲が皇后の世話をするのがおかしい。
――皇后は、たすけてと言った。あの方は、そんなこと言わない。
 そうかもしれない、と叶に上着を着せかけながら風眞はそう思った。
ふと叶の顔を見ると、うつろな目をしていた。顔色も悪い。疲れたのだろうと思い、風眞は寝台で休むよう提案した。
横たわるとすぐに叶は意識を失ったように目を閉じた。額に触ると少し熱く、呼吸も荒い。
そういえば、と風眞は思った。
喬が殺されて以来、以前のように医師が診察に来なくなっていた。代わりに女官が薬だけ届けに来ている。それについて風眞も棗も深く気にとめなかった。
苦しそうに叶が呻いた。
とりあえず医師に知らせなければ。
 すでに日も暮れていたが、風眞は上着を着こんで外に出た。
 早く母さんが帰ってくれ珮いのに。
 けれども棗のいない間は全て風眞が責任を持たなければならない。たかだか十歳と少しの子供と言えども、その役目から逃げるわけにはいかなかった。風眞の不手際で叶に何かあれば、事情がどうであれ棗の不行き届きということになる。それに風眞自身、叶のことが心配でならなかった。
 雪が降り積もった内裏を走り抜け医師の詰め所へ辿り着いたのはいいが、今まで叶の主治医をしていた医師がいない。使いの者が子供だということで、寮にいた若い医師には不審そうな顔をされた。
「子供のたわごとに付き合ってる暇はないのだよ。今日はとても冷えるからね」
 そう言う若い医師は風眞を疑っているようだった。
 本来ならばこういうとき、きちんとした女官が呼びに行くのが筋だ。けれども棗はいない。
「私の母は、別の女御の方に呼ばれていて、帰ってこられないのです」
「そんなことがあるのかい」
 医師はまた不審そうにした。王子つきの女官がたとえ女御に雑用を頼まれたとしても、こんな遅くに帰ってこられないはずがない。
「本当なんです。私の母上以外にお世話を申し上げる者が叶様にはおりません」
「・・・・・・」
 医師は驚いたような顔をした。まがりなりにも王子であるならば、世話をする女房が一人であるわけがない。この医師は宮中で叶がどういう立場に置かれているのか知らないようだった。
 兎に角、万が一のことがあっては困ると風眞は懇願し、半ば無理やりその医師を叶の元へ連れてくることに成功した。
 診察を終え、医師は薬を調合する前に風眞に尋ねた。
「今飲んでいらっしゃる薬を見せていただけまいか」
「はい」
 風眞は薬の入った袋を差し出した。医師はその中身を手のひらの上に広げ、検分するようにしてから風眞に再び尋ねた。
「これを調合したのはどの医師か」
「あの、前に診ていただいていた、ワカン様ではないのでしょうか・・・・・・。最近はお見えにならず、女官の方が届けてくださるもので」
「最近?」
「はい」
 医師は首をかしげた。
「ワカン殿は一ヶ月ほど前に亡くなられている」
「・・・・・・!」
「その女官の名はご存知か」
「・・・・・・いいえ」
 ふう、と医師は大きく息を吐いた。
「私は宮中でどのようなことが起きているか全く興味が無いが、少しは警戒すべきだろう。これは、薬などではない」
「え、でも、前にワカン様がくださったお薬も似たような・・・・・・」
「ではそれも、薬ではないのだろう」
 風眞は愕然とした。何ということだろう。薬でないのならば、今まで叶が飲まされていたのは。
「毒だ。即効性のものではないが、徐々に体内の気を奪う。子供の頃からこのようなものを飲まされていたのでは、無事に成人できる可能性はかなり低くなる」
「そんな」
「何故このようなことが起きたのか私にはわからぬが、とにかく今後は私の調合したものを服用して様子を見るように」
 そう言って医師は部屋を出て行こうとした。戸を開けると暗い空の下、雪が待っている。
 風眞はその後を追うようにして尋ねた。
「叶様は心の臓の病で、二十歳になるまで生きられないと聞いていました。本当は病などではないのですか?」
 体が弱いから、と小さいころから主治医にワカンがついていた。そのワカンの薬が本当に毒だったのであれば、叶の病自体も疑わしい。そして、同じくワカンが診ていた常葉叶の母親の死さえも。
 若い医師は首を横に振った。
「今となっては、病のせいか毒のせいかわか藍よ。心の臓が弱っているのは確か。そして二十歳になるまで生きられないというのもあながち間違っているとは言えない」
「そんな・・・・・・」
「とにかく、どういういきさつか知藍が、得体の知れぬ薬など与えてはいかん」
「ワカン様が、何故そのようなことをされたのでしょうか」
「・・・・・・ワカン殿の意思ではなかろう。少なくとも医師がそのようなことをしても何の得にもな藍」
 ふう、と医師は長い息を吐いた。
「『誰か』がワカン殿に頼んだのであろう」
「では誰が・・・・・・」
「私はわからぬ。それにそのようなこと、知りたくもない。余計なことに巻き込まれたくないからな」
 医師の冷たい物言いに、風眞は肩を落とす。
 それでは、と言い残して医師は去った。暗い闇に消えていくその後姿を見ながら、この事実を叶に伝えるべきか否か、風眞は頭を悩ませていた。

 その晩、部屋にやってきた蔚木に、風眞は今日医師から教えられた事実を話した。叶は眠っている。例によって棗の帰りは遅い。風眞は蔚木に茶をいれてから、火鉢のそばにひざを抱えて座った。
「一体誰が叶様へ毒を・・・・・・。そのせいでご病気になってしまったのでしょうか」
 風眞はため息をついた。風眞には宮中でどのような争いが起きているのか全く知る由もなかった。身分の低い叶が蔑まれていることは理解できても、叶へ毒を盛る目的がまるでわからない。
「叶様が幼少の頃に、二十歳まで生きられないと国王に申したのは、医師のワカンでした」
 蔚木は火鉢を見つめながら言った。
「おそらく、その時にはすでに誰かが裏で手を引いていたと考えてよいでしょう。風眞、宮中は常に裏で争いごとが起きています。お前も叶様を守る者なれば、少しでも知っておくべきでしょう」
 言ってから、蔚木は話し始めた。
 現国王の何代も前の時代から、王家と密接な関わりを持ってきた貴族の一族がいる。珮氏というその一族は、王子と娘を婚姻させ国王との外戚関係を築いていた。そのため何代にも渡って、国王は珮氏を無視することができないという状況が続いた。
しかし、現国王の就任と共にその関係が途切れた。
前代の国王には子ができなかったのである。ゆえに出家していた現国王は還俗し、珮氏と無関係なところから王位を継承した。そして過去の癒着から離れ、自由に采配をふるうことになった。
 国王は王家の基盤をなるべく珮氏と切り離そうとした。手始めに自らの皇后となる后を、元王族で何代か前に貴族へと下った?氏から娶った。それが桔梗であり、彼女との間に生まれた第一王子が喬である。
 一方、珮氏も例によって一族の娘を国王のもとへと嫁がせた。大臣の娘、菖蒲は皇后の次の位となる后として迎えられ、冬葵と若彌の二人の王子を産んだ。菖蒲の妹も国王のもとへ嫁ぎ、雅葵を産んだ。
 さらに珮氏の絶対的な支配が崩れたことを見抜いてあわよくば権力を握ろうとしたのが、藍氏――代々軍を統括管理する立場もしくは大臣として王に仕えてきた一族である。藍氏は国王へ楓という娘を嫁がせ、国王にとって二番目の王子となる吟を産ませた。
 王位継承者は第一王子であり、国王の意向にも沿う喬で何の問題もない。利発で人望も厚く、国王の権力を高めるためにも、喬は最高の継承者だった。しかしそれゆえ、珮氏や藍氏にとってはひどく目障りな存在でもあった。
「喬様がその二つの一族のどちらかに殺害されたということはほぼ周知の事実です。しかし証拠もなく、どちらの一族も罪を相手になすりつけるばかりで、一向に事実確認が進まないのです・・・・・・」
 王子殺害の犯人が見つからないなど前代未聞のことである。特に喬は自室で殺害されたため、犯人は王子の部屋に出入り可能な身分の者でしかありえない。
「珮氏は藍氏の犯行にしたてあげようとし、藍氏は珮氏になすりつけようとする。この争いに勝つことができれば、珮氏は冬葵王子を、藍氏は吟王子を後継者として冊立することができる――。このように宮中には常に争いごとがたえないのですよ」
「そういうものなのですか・・・・・・」
 正座をしたまま、あまり納得のい叶ような表情で風眞は頷いた。
「では、叶様に毒を盛ろうと考えたのも・・・・・・?」
「おそらく、どちらかの一族の仕業でしょう。叶様の母親の常葉様も貴族社会とは全く関係のないところのご出身ですし、特に常葉様は最も国王の寵愛を受けていた――下手をすれば彼ら一族とは無関係の常葉様から産まれた王子を王が優遇する可能性もある。喬様と同じく叶様も彼らにとっては目障りな存在だったということです」
「珮氏か藍氏の関係でなければどちらからも嫌われる、ということなのですね」
「後ろ盾の無い者は誰も守ってはくれません。喬様は王位継承権を持ち、国王の後ろ盾があったにもかかわらずあのようなことに・・・・・・。ですからおそらく叶様も」
 ふう、と長く風眞は息を吐いた。叶や常葉が疎まれていたのは身分のせいだけではなかったのだ。
「けれども今は叶様には私がついております。公にはまだ動くことはできませんが、少しずつ私についてきてくれようとするものもおります」
「それは・・・・・・?」
「貴族の政治に嫌気がさしている軍人たちですよ。死ぬ気で戦い、天下をとっても貴族たちが国政を取っている限り、全ての土地は彼らのものになる。命をかけてまで戦いに勝っても、戦いが終われば蔑まれ富を貴族に搾取される。我々は、我々を理解してくれる王を必要としているのです。今の国王は貴族との癒着を断ち切ろうとしている。けれども次の王が貴族を重用すればまた元に戻ってしまう。ですから、私はどうしても叶様に玉座についていただきたいと、そう考えているのです」
 十歳の叶に頭を下げてまで王になってほしいと懇願したのにはそこまでの深い事情があったのかと風眞ははじめて理解した。貴族政治に飽きているものたちの期待。それがこの老齢の天才軍師に頭を下げさせたのだ。
 小さな物音がして、奥の部屋から叶が顔を覗かせた。寝巻きに綿の羽織を着ただけの姿で風眞たちの座っている火鉢のそばへと歩いてくる。風眞はあわてて座った叶に厚い生地の上着を着せかけた。
「――叶様」
 蔚木が声をかけると、叶は黙って頷いた。
 どうやら今までの話を聞いていた様子だったが、黙っているのでどこまでを聞いていたのかはわからない。先ほどの若い医師の薬のおかげで熱は下がっているようだった。
――風眞、蔚木に伝えてくれ。
 何のことだろうかと風眞が瞬きしていると、叶の唇が動いた。
――犯人は、吟だと。
「叶様、しかしそれは・・・・・・」
 今まで誰にも話したことはない。言っても誰も信じはしないだろうし、逆に叶の身に災難が降りかかる可能性のほうが大きかったからだ。
 蔚木は信頼できる人間だが、言ってしまってよいものか、風眞はためらった。
――伝えてくれ。
 もう一度叶が言う。
 着物の袖を強く握られて、ようやく風眞は蔚木の方を向いた。
「蔚木様」
「どうかなさいましたか」
「あの・・・・・・叶様が」
 一瞬、呼吸をおく。
「喬様殺しの犯人は、吟王子だと」
 蔚木は目を見開いた。
「まさか」
「本当です。叶様と私は、その場を見てしまったのです」
 しばらく言葉を失って、蔚木は二人を見比べた。
「そんなことが・・・・・・。なるほど、はじめに叶様に容疑がかけられたのはそのようなわけがあってのことですか」
「私は、証人として問いただされましたが、言えませんでした」
「そうでしょうな」
 火鉢が音をたててはぜる。三人の影が少し揺れた。
「とにかく」
 蔚木は立ち上がった。
「本日のことはこの蔚木の胸にしまっておきます。いずれこのことは真実を暴きわれわれの目的を達成するときに必要になりましょう」
 叶は黙って頷いた。
「――それでは」

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