| 一章
風鈴が鳴る。
振り返ると、開けられた扉から夏の日差しが差し込んできた。
「叶くん、こんにちは」
うさぎのぬいぐるみが、扉の向こうからちょこんと挨拶をした。
東西へ広く伸びる本州と三つの島に囲まれた天下。本州の西方の国、京華は、西へ勢力を伸ばしつつあった。時の国王のシュウは老齢で、今後国を任せることになる第一王子に全ての国民の注意は注がれていた。
齢二十歳になる第一王子の名は喬と言った。喬は臣下だけでなく国民の信頼も厚く、知にも武にも長けていて申し分のない跡継ぎである。国王には喬以外にも母親の違う五人の子がいたが、嫡子である喬に勝る王子は一人としていなかった。
「兄さま!」
ダダ、と駆け出すと、叶は兄の腕の中に飛び込んだ。
兄の喬は笑いながら右手のうさぎを動かした。
「叶くんはお勉強をがんばったそうだね?」
「うん!」
「だから今日からぼくがお友達になってあげるよ」
そう言って喬は叶にうさぎのぬいぐるみを手渡した。真っ白なうさぎのぬいぐるみは、おそらく着物のあまり布を使って後宮の女官などが作ったのであろう。叶が抱きしめるとしっとりとしたなめらかな肌触りがした。
叶は末の王子で、今年で十になったばかりの子供である。喬はひとまわり近く歳の離れたこの義弟を非常にかわいがっていた。
「昨日先生に聞いたよ。叶は本当によくできる子だって。だから、ごほうびにうさぎさんを持ってきたんだ」
「先生」とは叶に学問を教えに来ている家庭教師のことだ。
「わあい! 兄さまありがとう!」
うさぎを抱きしめて今度は部屋の中の母親の元へと走り出す。
「母さま! 兄さまがうさぎさんをくれたよ!」
「あら」
部屋の奥から、白い部屋着をまとった母親が姿を現した。長い髪をゆるく結い、赤い漆塗りのかんざしを一本さしている。まだ若い、色白の美しい女性だった。
「喬様、いつもありがとうございます。わざわざこのような離れまで・・・・・・」
「いいえ、叶といると、私も楽しいのですよ。お加減はいかがですか」
「ええ、おかげさまで」
叶の母親は病弱で毎日ほとんど部屋からでることがなかった。元はかなり身分の低い立場の女性だったため、叶を出産した後も後宮に住まうことを許されていない。離れで叶と、数少ない使用人と暮らす毎日だった。
「ねえ、ほら、兄さまがうさぎさんくれたんだよ!」
見て、と叶は母親にうさぎを差し出す。白い指でうさぎを撫でながら、「よかったわね」と叶の母親は微笑んだ。
「叶は幼いながらによくできる頭のよい子だと評判ですよ。私の小さい頃などに比べたら、本当に比にならないほどだと」
「まあ、そんなことはないですわ」
「いえ、本当ですよ。叶が大きくなったら、きっとこの国も繁栄するでしょう」
喬の言葉に、叶の母親は何故か少し顔を曇らせた。
「兄さま、ぼくね、大きくなったら兄さまのお役に立てるお仕事するよ!」
「うん、そうだね。楽しみだね」
喬はそう言って微笑みながら叶の頭を撫でた。
喬は叶達の住まう離れをあとにして宮殿への道を歩いていた。夏の強い日差しが池にはねかえり、蝉の声が響いている。紛れも無く季節は夏だったが、池を渡す橋の上を歩いている喬の姿は涼しげに見えた。着ているのが白い衣であるせいかもしれないし、喬の持つ凛とした雰囲気のせいかもしれない。
ちょうど大きな木の陰に差し掛かったところで、喬はひとつ下の義弟の吟に出会った。
「なんだ、またあのチビに会いに行ったのか」
「お前こそ、また狩りか? あまり野生動物を殺すのはおすすめしないな」
秀麗で王子らしい気品に満ちた顔立ちの喬とは違い、吟は野生的で気の強そうな顔立ちをしていた。体つきも大きくがっしりとしていて、事実吟は勉学に励むよりも武芸を好んだし、喬よりも早く戦場で功をあげた。
「卑しい身分の人間と付き合うとあらぬ噂がたつぜ。まったく、王位継承前の人間のすることとは思えねえな」
「母親が違うとはいえ、叶は僕の末の弟だ。まだ幼いがあの子は賢いし、将来有望だ。誰かと違ってな」
「・・・・・・」
吟は下唇を噛んだ。喬の次に王位継承権を持つ彼は、軍を統率する立場にある有力な藍氏一族の母を持ち、祖父は大臣を勤める高官だった。しかし国王になるには知の才も人望も、喬には勝てなかった。ゆえに昔から吟は喬を憎んでいたし、二人の仲は疎遠というだけでなく険悪というのは周知の事実だった。
「将来有望だかなんだか知藍が、若いうちに死んじまうような病弱じゃ役にたたねえな」
喬の言葉への仕返しとばかりに、吟は言った。
「確かに叶の母親は病気がちだが、かといってそのような言い草、冗談としても許さんぞ」
喬が吟を睨みつける。
「おっと、知らねえのか? 父上が言ってたぜ、あのチビは二十歳までも生きられないって医師が言ったらしいぜ。かわいそうだよなあ。でも、そんなやつに期待しても仕方ねえよな」
「そんな馬鹿な」
喬の体から力が抜ける。確かに、叶は歳のわりに小さくて細い体つきをしていたし、外を走り回る姿も、あまり見かけたことはなかった。けれども体が小さいのはまだ成長していないせいで、いつも屋内にいるのは病気がちな母親が部屋に籠りっ桐だからだと喬は思っていた。
――叶はあんなに元気そうにしているではないか。
吟が笑った。
「嘘だと思うなら父上に聞いてみろよ。本当だからよ」
そう言って吟は笑いながら去っていった。
「叶の病気について母上は何かご存知でしょうか」
喬は御簾の向こうの母親に話しかけた。宮殿に戻ったが、父親である国王が公務中であったため、会えなかったのである。
「吟が、叶は病気なので短命だなどと申しておりました。叶は必ず将来有能な人間になるはずです。病気であるならば、医師に治療を受けるべきです」
御簾の向こうの皇后は羽のついた扇で風をあおぎながら、黙って喬の話を聞いていた。
「――叶は、幼い日の貴方によく似ています」
静かに皇后は言った。落ち着いた、低い声だった。
「あの子が賢い子で、将来有望であるのは国王もご存知です。けれども、あの子は生まれつき心の臓が弱い。医師が言うに、弱いのは心の臓だけではないそうです。できうる範囲での治療は医師が行っています。けれども薬を与えるだけでは、どうにも治すことができぬ様子」
「そんな、それでは――」
「ゆくゆくは弱り、おそらく若いうちに死に至るのでしょう」
「しかし――」
「世の中には弱くて死んでいく子どもは多いのですよ。たとえ将来有望であろうと、一人の王子であろうと、あなたの義弟であろうと、弱き者は早く死にゆくのです。医師が治せぬと言った以上、私達にはなす術がありませぬ」
皇后は強く、しっかりと言い放った。
確かに人は死んでいく。死なない人間などいない。
城の外で子供の葬式を見たことが無かったわけではないし、世の中の弱い人間が死んでいくのは自然の理だと理解もしていた。
しかし、叶はまだ十歳ではないか。あんなに元気そうで、賢くてよい子なのに。
「残りの四人の王子に比べると、確かに叶を失うのは惜しいこと。あの子なら立派な大臣になって国を補佐することでしょうに」
皇后は羽の扇であおぎながら言った。
「他の四人の王子が王になれば、天下統一の夢も泡と消えるどころか、国を荒れさせるかもしれません。けれど、貴方ならば立派に国を治められるでしょう。来年に控えている戴冠式の後も、しばらくは現国王が貴方を補佐してくださるでしょうし」
「――問題なのは、そのようなことではないのです」
「それでは、どのようなことだと?」
堅い声で言った喬の言葉に対し、皇后は聞き返した。
「私は義兄として、家族として叶の未来を案じているのです。他の義弟とは家族と呼べるようなつながりはありませんが、叶だけは私の大切な弟だと」
「貴方の言っていることはわかります」
皇后は喬の言葉を途中でさえぎった。御簾が持ち上がる。奥からきらびやかな衣をまとった皇后が喬の方へ歩み寄ってきた。
「叶をかわいそうだと思うのは、貴方も人なのですから当然のことでしょう。けれども貴方は来年、王位を継がなければなりません。貴方はこの国の、ひいては天下のことを考えなければならないのです。叶をかわいそうだと思ってもよかろうが、もっと広い視野を持ちなさい」
「・・・・・・」
喬は黙り込んだ。
「京華は西方を掌握しようとしている。いずれは天下をも飲み込む大国になります。貴方は、その時の国王であるはず。多くの人が死ぬこともあるでしょう。たった一人のために心を痛めているようでは、京華の王にはなれませぬ」
皇后の言葉には強い意志が込められていた。
皇后、桔梗。国王の遠縁の一族に生まれ、正妃の位についた。教養も高く、彼女は皇后としての自分の立場をよく理解していた。
――立派な国王を育て上げること。そして、京華の繁栄。
そのためにすべきことは全て成し遂げてきた。そしてこれからもその責任を果たすために皇后として、皇太后として国へ貢献していくという強い意志を、彼女は持っていた。もちろん喬も皇后の意志は理解していたし、自分のなすべきことも理解している。
彼はそれ以上何も言わずに皇后の部屋を出て行った。
来年になれば戴冠式を経て正式に国王にならなければならない。現国王が補佐をすると言っても自由な時間など持てるはずがない。
――今のうちに、叶と時間を持っておこう。
せめて彼が少しでも長く生きられる保障がほしい。医者が無理というのであれば、何か他の方法で。喬は国事に関連する吉凶を占う巫女たちが集まる王宮敷地内部の東の塔へ向かった。
占いの巫女たちの中で、現国王が最も信頼を寄せている巫女が一人いた。名を榊と言う。現国王が即位した冬葵から巫女を務めているが、年齢は不詳で歳をとらないように見えるという。噂では、北の果ての海を隔てた先にある浅葱の国の、さらに深い森の奥にあるという「神の村」から来たと言われていた。
榊の占いは八割以上当たると言われているが、問われたことが占えるか否か、彼女が選ぶことができず、占えないことはどうあっても占うことができなかった。そして、占いの結果は抽象的な表現が多く、具体的な意味は彼女自身も説明できないということだった。
喬の突然の来訪に巫女たちは驚いたが、榊に相談があるというと、すんなりと奥へ通してくれた。木造の塔は古い造りだがしっかりとしていて、廊下や階段は木の香がした。すでに夕暮れが近く、差し込む日も低いのでところどころで灯りがともされていた。
榊は塔の上の階におり、部屋に入ると不思議な香がたちこめていた。それほど広くない部屋は国王からの贈り物で埋め尽くされており、部屋の奥に垂れ下がる御簾の向こうに榊は座っていた。
「喬様がいらっしゃるような気が、しておりました」
はんなりとした声がした。
「榊殿。貴女に尋ねたいことがあって参りました」
「ええ」
「義弟の叶のことです。あの子を、たすけるにはどうしたらよいのか、占っていただけないでしょうか」
榊はしばらく黙った。御簾の向こうの灯りがゆらゆらと揺れる。
「以前、同じようなことを国王がお聞きになりました。その時は――答えが感じられませんでした」
占えない、ということである。喬は肩を落とした。父親である国王も、自分と同じような思いを抱いたのであろう。けれどもどうしたら叶を助けられるのか、榊にも見えなかった。
占えないのであれば仕方が無い、他の方法を探そうと思って喬が立ち上がろうとした冬葵、榊が声をかけた。
「叶様のために、喬様が何をなすべきかという問いでしたら、もしかしたら答えが感じられるかもしれませぬ」
「本当か」
「試してみましょう。しばらく、お待ちくだされ」
御簾の向こうの榊は座りなおしたようだった。
突然、ともっていた灯りが全て風が吹いたように消えた。部屋の中は少し薄暗くなる。一切の音が聞こえなくなり、榊の、何か呪文を唱えるような声だけが部屋の中に響いた。それから榊の声も聞こえなくなり、しばらく無音の時が過ぎた。
そして。
「――喬様」
「何か、見えたのか」
「はい」
喬は身を乗り出して次の言葉を待った。
「叶様を軍や戦場、そして軍人に近づけてはなりませぬ。あとは――」
「あとは? 私は何をすればよいのだ?」
「――喬様のことは、ほとんどわかりませぬ。ただ、時間は来年まで。あまりありませぬ。そして、よくわからないものばかりがたくさん見えました」
「よくわからないもの?」
「神なのか、悪魔なのか。叶様のことか喬様のことかはわかりませぬ。ただ、叶様のご病気だけではなく――何か別の大きなものが、未来に待ち受けていることは確かでございます」
不吉なことを榊は言った。
「私がお教えできることは、これで全てでございます。お力には、なれなかったようでございますね。申し訳、ございませぬ」
御簾の向こうで榊は深々と頭を下げたようだった。
榊の答えはよくわからないことだらけだったが、これ以上はもう知ることはできないだろうと思い、喬は巫女の塔をあとにした。
時間は来年まで。おそらくそれは、来年自分が即位することを意味するのだと喬は理解した。そして叶を戦場へ近づけてはならない、これは彼は体が弱いので他の王子のように陣に出したりはしないほうがよいということなのだろう。けれども、叶の病気だけでない、未来に待ち受けている大きなものとは?
喬にはわからなかった。自分にできることは、即位するまでの短い自由な時間を叶と共に過ごすだけだと思っていた。
南方の菓子を手土産に、喬は叶達の住む離れを訪れていた。夏の強い日も、朝のうちはさわやかに感じられる。今日も蝉が競り合うようにして大きな声で鳴いていた。
離れの前庭で、一人の子どもが喬ろ喬ろと辺りを見回していた。色が白く真っ黒なおかっぱで、歳は叶と同じくらい。このような髪型をしているとこの年代の子どもは男か女か見分けがつかなくなるが、服装から少年であることがわかった。
「叶様、どこですかー!」
どうやら叶を探しているらしい。おそらく使用人の子どもであるだろうこの少年に喬は声をかけることにした。
「叶はどこにいるのかな?」
「え?」
少年は喬とんとして真っ黒な目で喬を見上げた。背は叶より少し高い。
「いないの?」
「は、はい。あの、お薬を飲みたくないとかで、外に出てしまって・・・・・・」
「そうか」
喬はぐるっとあたりを見回す。外の世界をよく知らない叶がそんなに遠くへ行くはずがなかった。
「叶! 南方の菓子を持ってきたぞ。いらないのか?」
喬の声に反応するように、近くの茂みが、がさ、と動いた。叶を探していた少年がその茂みをかきわける。
「見つけましたよ!」
観念したように叶が茂みから出てきた。
「兄さまがいるなんて、ずるいよ・・・・・・」
ふてくされて叶は頬を膨らませた。その言葉を聞いて、おかっぱの少年が驚いた顔をする。
「喬、喬様・・・・・・?」
今まで喬であると気づかなかったのだろう。少年は顔を真っ赤にして地面に膝をついて頭を下げた。その様子を見て喬が苦笑する。
「叶、この子は?」
「乳母の棗の子どもだよ。風眞っていうんだ」
「風眞、顔をあげていいんだよ」
言われて、風眞が真っ赤な顔を上げる。驚いているような、少しおびえているような、そんな表情をしていた。
「こんな苦い薬、どうしてぼくだけ飲まなくちゃいけないんだ」
湯飲みに入った煎じ薬を飲み干したあと、涙目で叶がつぶやいた。ふてくされたように卓子に顎をのせて湯飲みを押しやると、風眞がそれを盆にのせて持っていった。
「いつも飲んでいるのか?」
「うん。いつもは母さまが飲ませてくれるんだ」
「今日は?」
「具合が悪くて寝てるんだ」
まだ薬の苦い味が残っているのか、叶は顔をしかめる。そこへ風眞が水を持ってきて、叶は一気にそれを飲み干した。
「今日は本当に具合が悪いみたいで、棗が看病してるんだ。皋医師も来てたよ。子どもはいちゃだめだって追い出された」
「そうか」
喬は奥の部屋を見やった。すると部屋の扉が開いて、中から使用人らしい女が出てきた。
「棗」
名前を呼んで叶がかけよる。あとを追うようにして風眞も棗の元へ駆け寄った。
「母さまの具合はどうなの?」
「・・・・・・」
棗は答えずに視線を泳がせ、喬に気づくとはっとした顔をした。
「喬様。いらしていたのですか」
「ああ。常葉殿は・・・・・・」
「ちょっとお話が」
そう言って棗は風眞に叶を庭に連れて行くように言いつけた。喬を椅子に座らせ、手早く茶をいれる。
「常葉殿の具合は、悪いのか」
「ええ、それが・・・・・・」
棗は沈んだ顔で下を向いた。
「国王へご報告にあがったほうが、よいのかもしれません。医師は、そろそろ覚悟を決めるほうがよいと」
「そんなに悪いのか」
「今朝は強く咳き込まれて、吐血されました。お召し上がりになる量も、ここのところ少しずつ減ってきていて・・・・・・。一日中、お休みになられていたほうがよいのでしょうが、どんな冬葵でも、叶様のためにと起きていらっしゃるのです」
棗は着物の袖で目元をおさえた。
「叶は、何も知らないのか」
「はい」
庭のほうから楽しそうな笑い声が聞こえてきた。
叶は、母親の病状について知るには幼すぎる。けれども、本当に言わなくてもよいのか。喬は複雑な気持ちになった。
「とにかく、国王へお伝えくださいまし。常葉様のお体は、あと一年もつかもたないかだと」
棗は眼に涙をためながら言った。
それから、叶と母親常葉は国王のはからいによって住まいを離れから後宮へと移すことになった。身分の低い常葉は離れに住んでいた頃から他の妃にさげすまれていたが、さすがに病床とあっては皆こっそりと陰口を叩くしかなかった。
「どうして離れから引っ越したの」
叶は棗に尋ねた。
「それは、国王が常葉様に会いにいらっしゃるからです」
「父さまが会いにくるの?」
叶は無邪気に喜ぶ。国王は離れへはほとんど足を向けなかった。ゆえに叶も父親と会う機会が少なかった。
「母さまが最近起きてこないのはどうして?」
「お疲れなのですよ。ですから、叶様もおとなしくなさってくださいね」
「うん」
叶は自分の母親が病弱なのは知っていたが、本当に病気だという認識はあまりしていなかった。なぜなら、常葉がいつも叶の傍にいたし、毎日元気そうに笑っていたからである。常葉がたとえ外に出られない体であったとしても、叶にとってはそれが普通なのだと思っていた。
そんな無邪気な叶だったが、後宮では自分たちが歓迎されていないことを薄々感じ取っていた。
後宮に女官は多くいるものの、棗以外誰ひとりとして自分たちの世話をするものはいない。叶が庭で遊んでいても、挨拶もせずにさっさと通り過ぎる。
どうして僕たちは嫌われているんだろう。
そんな叶の疑問に答えるような事件が、起こった。
ある昼下がり、叶は風眞と鬼ごっこをしていた。風眞が鬼で、叶は夢中になって逃げ続ける間にすっかり見知らぬところへ来ていた。
病弱な母親からほとんど離れなかった叶は、どこに何があるのか全く知らない。不安になりながら叶があたりをうろうろしていると、後ろから声がかかった。
「おい」
振り返ると、十六、七くらいの少年が立っていた。薄い水色の衣を着ていて、涼しげな雰囲気は喬に似ていなくもなかった。
叶はこの少年が誰だか知っていた。三番目の兄の冬葵だった。
五人の兄に会うことはほとんど無いが、一年に一度、国王の誕生会には全員が揃う。
華やかな誕生会の祝宴で、叶と母親の常葉は一番端の席に座り、身を小さくして宴に参加した。常葉は一言も喋らなかったし、叶もそうしたほうがよいのだと思い、いつも黙って目の前の食事と向かい合っていた。
いつも国王の席の一番そばに座るのが皇后と喬で、その後ろに喬の妹たちが控えていた。さらにその次の席には二番目の妃とその息子の二人の王子が座る。そのうちの一人が三番目の兄の冬葵で、もう一人が五番目の兄の若彌だった。
叶には身分のことがよくわからなかったが、父親に近い席に座れて、より綺麗な格好をしている人達のほうが偉いということは、なんとなくわかっていた。そして、自分たちが一番下だということも。
「お前、なんでこんなところにいるんだよ」
冬葵は腕を組んで言った。見下ろしてくる目が怖い。叶は思わず体をこわばらせた。
「ここはさ、お前みたいなのがいる場所じゃないんだよ」
声の調子も刺すように冷たくて、夏なのに急に寒くなったように感じた。
背格好や顔のつくりなどは喬に似ている冬葵だが、明らかに喬とは雰囲気が違う。喬は暖かく落ち着いていて、やさしい雰囲気だったが、冬葵は暗く人に冷たい。非常に頭はよかったが国王には向いていなかった。
冬葵の母親は冬葵に期待していたが、すでに彼は玉座には興味を無くしていた。彼自身、喬が一番国王に向いていることを理解していたからである。冬葵は吟と違い、喬と仲が悪いようなこともなかったし、逆に冬葵は喬を慕っているように周りからは見えた。冬葵は将来、喬の補佐として生きていくことを決めていた。だからこそ喬に取り入っておきたかったのである。
「お前さ、『頭のイイコ』って最近評判なんだよ」
「・・・・・・」
「教師だけじゃない、最近はお前のことをよく知らない臣だってお前の将来に期待して噂してるんだ」
話の内容はほめられているようだったが、とても冬葵の表情を見ていると褒めているようにはとても思えなかったので叶はどうしたらいいのかわからなかった。
「でもさ、よく考えてみたら、お前みたいな卑しい身分のやつなんかが出世できるわけがないんだよな。そうだろ?」
叶には、冬葵の言っている意味がよくわからない。
「いいか。ちょっと兄上に可愛がられているからって大それた夢を抱くんじゃない。お前の母親はこの宮殿の下働きだったんだ。たまたま父上に見初められて妃に身分を格上げされただけ。だから、お前もその母親が死んだら下働きなんだよ」
「・・・・・・母さまが死んだら・・・・・・?」
そんなことあるわけない、と叶は思った。不安げな叶を見て、冬葵はフフン
と笑う。
「馬鹿だな、お前の母親はもうすぐ死ぬんだよ。だから身分も低いのに後宮に住まわせてやることにしたんじゃないか。父上もお優しいよな。まあ、もうすぐ死ぬんだからいいのか」
――母さまが死ぬ? うそだ。そんなことあるわけない。
目の前で冬葵がケラケラと笑う。
なんでこいつは笑うのだろう。
叶は生まれて初めて、腹の底から怒りを感じた。
「そんなこと、あるわけない!!」
冬葵に向かって飛び掛っていった。ふいをつかれて冬葵が倒れる。倒れた先に石があって冬葵は頭を打ちつけた。
「いてえ・・・・・・!」
顔をしかめて起き上がる冬葵の頭から血が流れているのを見て叶は愕然とした。
――しまった。
叶を見た冬葵の顔は、怒りで赤くなっていた。
叶は御簾を隔てた皇后の前に正座させられていた。
右の頬が腫れ上がっていたし、着ている衣も泥だらけ、体中のあちこちに擦り傷や切り傷があって痛んだ。
「よいですか、叶。ここに住まう以上、これだけは覚えておきなさい」
目に涙をためている叶に、皇后は威厳のある声で言った。
「決して、何があろうと兄上に手をあげてはなりませぬ。お前は一番末の子なのですから」
「でも・・・・・・」
「でも?」
「冬葵兄さまが、僕の母さまが死ぬって・・・・・・」
そこまで言って、叶の目からは涙があふれてきた。しゃくりをあげて泣き出す子供を目の前に、皇后も一瞬口を閉ざす。
「・・・・・・叶」
慈愛に満ちた声で皇后は名を呼んだ。
皇后というものは、後宮に住まうもの全ての母だった。後宮での出来事は全て皇后の管轄下にある。たとえどんなに身分の低いものであっても、それが国王の子である以上、彼女の実の息子も同然だった。
「・・・・・・誰かに何かひどいことを言われたりされたりした冬葵は、まず私に言いなさい」
叶は顔を上げた。一瞬泣き止み、そしてまた泣き出す。
皇后は哀れに思い、叶の傍によってその体を抱きしめた。十にしても小さい、細い体だった。
国王が常葉を訪ねるのは決まって叶が寝てしまったあとだった。国王は公務に忙しく、遅い時間でないと暇ができない。
紅葉の散る窓辺の近く、叶は昨晩父親が座ったであろう椅子に腰掛けて、眠る母親の姿を眺めていた。
近頃、常葉の寝顔しか見ることが無くなった。
「母さま」
呼んでみても、常葉は全く反応しない。
美しかった面は頬がこけ、目元が窪み、薄黒くくすんでいた。上掛けから出ている指も骨ばかりで、血が通っているようには思えなかった。
「母さま」
もう一度、叶は呼んでみる。
返事も、反応もないことが突然恐ろしくなって、叶は部屋を飛び出した。
――母さまは、死んでしまう。
本当はもう死んでるのかもしれない。
怖くて怖くて、叶は泣きながら庭へ飛び出した。
洗濯したものを干している棗が眼に入ると、構わず抱きついた。
「叶様」
突然抱きついてきた小さな体に、棗は驚いて手にしていた布を落とした。
叶は泣きじゃくる。
どうしたものか、棗は首を傾げながらその小さな頭を撫でた。
「母さまが」
しゃくりをあげながら、叶は言った。
「母さまが、死んでしまう」
その晩、常葉は息を引き取った。
叶は十日間、白い喪服に身を包み、形ばかりの挨拶に訪れる人々の相手をしなくてはならなかった。
叶にとって唯一救いだったのは、父親である国王が母の葬儀に来てくれたこと、そして自分に声をかけてくれたことだった。
「皇后と兄の喬を頼り、勉学に励みなさい」
父親はそう言って頭を撫でてくれた。
兄の喬は常葉が無くなって数日だったが傍にいてくれたし、皇后は叶を暖かく抱きしめてくれた。何も心配しなくていい、皇后も喬もそう言ってくれた。
それでも母親がいなくなったことは、十歳の叶にとって辛すぎる試練だった。 棗はこれから叶が移り住むことになる宮の準備で大忙しで相手にはしてくれない。
常葉は王宮の西に位置する寺院の墓地に葬られた。昔から身分の低い后たちが埋葬される墓地である。小さな石の墓標の前で、叶は風眞と肩を寄せ合って泣いた。
そうしているうちに、冬になった。
京華の冬は寒い。雪がつもり、あたり一面真っ白になる。
叶はかじかんだ手に息を吹きかけながら、庭を眺めていた。
ぱたぱたと足音をたてて廊下を走ってくるものがいる。火鉢を抱えた風眞だった。
「先生はもうお帰りですか?」
「うん」
母親を失った叶は皇后の住む殿舎へ移された。そこには皇后の娘であり、喬の妹である紫苑と素馨の二人も住んでいた。叶にとっては、新しい家族に囲まれたようだった。
「今日の授業が終わったら紫苑様と素馨様が一緒にお茶をしましょうとおっしゃっていました」
「本当?」
紫苑と素馨は新しく現れた小さな弟を大切にしていた。皇后が定めた叶の勉強時間以外、叶を離すことがないくらいの大変なかわいがりようである。叶はこの二人の姉に囲まれて過ごすうちに、自分が疎まれていた存在であることをすっかり忘れるほどになっていた。
「姉さま」
叶が部屋を訪れると二人は声をあげて手招きした。部屋の奥には喬が座っている。
「兄さま!」
叶は喬に飛びつく。
「あら、叶ったらお兄様のほうが好きなのね」
「うふふ、本当」
くすくす笑う姉に顔を赤くして、叶は振り返った。
「兄さまは久しぶりだったから・・・・・・」
「久しぶりって言っても、たかだか一週間ほどよ」
笑いながらそう言われて、叶はさらに顔を赤くした。
「まあまあ、そんなやきもちを焼いてもしかたないわ。今日はお兄様が珍しいお菓子を持ってきてくださったの。叶も一緒に食べましょう」
「うん」
この宮に来てからの生活は天国のようだった。紫苑と素馨は先を争うようにして叶を可愛がってくれるし、離れにいた頃よりもずっと喬が遊びに来る回数は増えた。皇后が定めた勉強は厳しかったが、叶は勉強することは楽しいことのように思えた。
母親がいないのはやはり寂しい。時折母の眠る墓地に足を運ぶ冬葵は必ず紫苑も素馨も付き添ってくれた。どんな冬葵でも二人の義姉がそばにいてくれる。子供ながらに、叶は自分が恵まれていると感じていた。
「お兄様、来年になったらもうすぐ戴冠式ね」
「ああ」
「楽しみだわ。私、式にはどんな服を着ようかしら」
妹の素馨は心底わくわくしているようだった。姉の方の紫苑はそれを見てくすくす笑う。
「あらいやだ。主役はお兄様じゃない。素馨がいくら着飾っても御簾の奥じゃ誰も見やしないわよ」
「そんなことないわ。それに、こういうのは気分ってものがあるでしょ。立派な国王になる方の妹なんだから、おいそれと変な格好はできないもの」
「そうだね」
素馨に同調して喬が笑った。
「兄さま、来年になったら国王になるの」
叶が喬を見上げる。
「そうだよ。父上が引退されるからね」
「ふうん」
叶は菓子を手に取った。綺麗な色をした、砂糖を固めたような花の形をした菓子だった。
「国王になったら、兄さまにあまり会えなくなる?」
菓子をかじりながら聞く叶に、喬は困った顔をする。
「それは・・・・・・」
政務におわれて暇は無いだろう。そして、そうしているうちに叶の命は少しずつ減っていく。突然喬は暗い気持ちになった。
――叶と過ごす時間は、もう残り少ない。
巫女の榊も、時間は来年までと言った。その来年が、もうすぐそこまできている。
時間というものはどうしてこうも早くに過ぎ去るのだろう。
「だいじょうぶよ」
暗い考えに喬が浸っていた冬葵、妹の素馨が声をかけた。
「お兄様がどんなに忙しくても、私たちは叶とずっと一緒よ」
「うん」
叶はにっこりと笑ってみせた。
「僕、がんばって勉強して、早く兄さまの役に立つ官吏になるんだ」
「あらあら、叶ったら本当にお兄様贔屓ね」
「官吏の試験なんて、とても難しいのよ」
紫苑と素馨は鈴のような声で笑った。
――叶は、官吏にはなれない。
喬も笑顔を見せながら、そんなことを思った。
年が明けた。
気温は低くなり、屋根の端から氷柱ができるほどだったが、宮中はそんな寒さお構いなしにいそいそとした雰囲気で盛り上がっていた。
王子喬の戴冠式が、今月の半ば頃に行われる。
皆の篤い期待を受けている喬だけに、式も盛大にしようと官吏たちは大忙しだった。
「叶、風邪をひきますからこっちへいらっしゃい」
「もうちょっと」
廊下から白い息を吐きながら叶を呼ぶのは紫苑。
叶は風眞と雪遊びに興じていた。
「これができたら、中へ入るから」
「もう、叶ったら」
紫苑はくすくすと笑う。
叶は風眞と二人で雪だるまを作っていた。
二人は同い年だったが、すでに叶と風眞は頭ひとつ分、背の高さが違っていた。
成長期なのに、と紫苑は思う。けれども彼女にはそれが病気のせいだとは思えなかった。
「できた!」
頬を赤くしながら叶がかけてくる。
見ると、胴体の割りに小さな頭の雪だるまができていた。
「僕が頭をつくって、風眞が胴体をつくったんだよ」
「まあ」
紫苑は微笑んだ。叶の小さな頭を抱き寄せる。紫苑にはこの小さな子が自分の本当の弟のように思えた。
「あ」
叶が顔を上げる。
「どうしたの?」
「うん、兄さまに呼ばれてたんだ。お部屋にきなさいって」
「あら、どうしたのかしら」
「戴冠式の前に僕にくれるものがあるんだって。でも、色々忙しくてこっちまでこれないから、お部屋まで来いって手紙が」
「そうなの」
また紫苑は微笑んだ。兄の喬は本当にこの小さな弟と会えなくなることを寂しがっていた。何か贈り物でも思いついたのだろう。紫苑はそう思った。
「行ってもいい?」
「いいわよ。でも、一人で行けるかしら」
「風眞と一緒に行くから、大丈夫」
「そう」
叶は嬉しそうに笑って、それから風眞を呼び寄せた。
喬の住まいである殿舎は王宮の敷地の中央より少し東側にある。北の奥に位置する後宮からは少し離れた場所だった。
「寒いから、これを着ていきなさい」
紫苑は叶の肩へ、厚手の上着を掛けてやった。同様に風眞にも掛けてやる。
「行ってきます」
嬉しそうに、叶は手を振って廊下の向こうへと歩いていった。
見送りながら、何故だか何ともいえないような嫌な気持ちがして、紫苑はじっとその後姿を見ていた。
「もうすぐ戴冠式か」
背後で声がして、喬は振り返った。入り口の戸の付近に、吟が立っていた。
「驚いたな。いきなり人の部屋へ入るのはやめてくれないか」
「お前の警戒心がなさすぎる」
吟の着ているものを一瞥して、喬はため息をついた。
「こんなに寒いのに、また狩りにでも出かけたのか」
「ああ、まあな」
適当な返答をして、吟は喬に近づいた。
「この剣」
壁に飾られている宝剣を吟が手に取る。豪奢な飾りのついた、美しい剣だった。
「初陣の際に、父上がお前に送ったものだったな」
「その通りだ」
「初陣、お前は何人斬ったか」
「・・・・・・」
喬は答えなかった。
「俺は、十七人斬った。十五の初陣の冬葵だぞ。それから、何度か出陣して、敵の将を討ち取ったりもした」
吟が宝剣を鞘から抜く。刃は鏡のように研ぎ澄まされていた。
「だが、お前はどうだ。お前は、何かしたか?」
喬はまたも答えなかった。
「俺は初陣でも、他の戦でも功績をあげたが、父上に何かを戴いたことなどなかった。いつも、いつだってそうだ。お前だけ特別扱いをされる。父上は、俺のことなど眼中に無いのだ」
吟は下を向いて、怒りをこらえているようだった。
「お前は、戦のほかに何か成し遂げたのか。国王の息子として、自分が何を望まれているのか考えたことがあるか」
澄んだ力強い声に吟が顔を上げる。真摯な表情で話す喬からは、覇気のようなものを感じられた。
「お前は将軍になるために生まれたのではない。国王として、あるいは国王を補佐するものとして生まれたのだ。それを理解せずに私をねたむなど、自分が恥ずかしくはないのか」
この男には勝てない。幼い頃から、吟にはそれがわかっていた。歳はひとつしか変わらないのにもかかわらず、五つ以上も離れているような、そんな風に思えるほど。だから、武芸においてならこの男に勝てると知った冬葵、飛び上がるほどに嬉しかった。やっと自分を認めてもらえる、そんな気がした。初陣の冬葵も、他の出陣の冬葵も、それを認めてほしくて努力した。けれども、国王は褒美はおろか、ねぎらいの言葉すらもかけてはくれなかった。
「お前さえいなければ」
吟の口から言葉がついて出た。
「お前さえいなければ、俺は国王からも認められ、王位を継承することができたんだ!」
宝剣が銀の弧を描く。
切れ味は思いのほか滑らかだった。
血飛沫があがる。ぴしゃり、と音がして壁にその軌跡が飛び散った。
ごろり、と足元に体が転がる。
豪勢な絨毯が少しずつ赤く染まっていくのを見て、吟は思った。
――やった。ついに、やった。
肩で息をしていると、後ろから「ひっ」という悲鳴が聞こえた。
振り返ると、末の弟の叶とその従属の子供が身を震わせていた。
それを見て、吟はにやりと笑う。
叶に近づいて、血にまみれた宝剣を握らせる。
「お前がやったんだ」
「あ・・・・・・あ・・・・・・」
「いいな、お前がやったんだ。わかったな?」
そう言って叶の頭を撫でてから、吟は風眞を覗き込んだ。
「お前も、何も見てない。そうだろ」
風眞は目に涙を溜めながら、頷いた。
吟は笑みを浮かべながら何事も無かったように去っていく。
残された叶と風眞の足元には、胴体から離れた喬の頭が転がっていた。
嫡子喬の死により、宮中は一斉に喪に服した。
予定されていた戴冠式は中止され、次の王位継承権の論争も混乱の中先延ばしになった。
皇后は心痛のあまり倒れ、喬の妹の紫苑と素馨の二人は髪をおろして出家した。
叶は混乱の中、声を失い、牢の奥に閉じ込められた。
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